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私の「座右の書」といえば、即座に、三浦綾子さん著の「光あるうちに」を挙げます。
もう20年以上前から、10回以上繰り返し読んでいる書であります。
今まであまり触れなかったのは、キリスト教の入門書でもあるからです。
キリスト教に関するメモは平成22年12月23日付け「キリスト教について」を参照下さい。
三浦綾子さんのこの書をお薦めし、読まれた方からは、必ず、「読み始めると、私の人生の疑問が解けてきて、いっきに読んでしまいました。感動しました!」といった感想をいただきます。
この本で三浦綾子さんはキリスト教の基本的な考え方を分かり易く説いています。
「人間の罪(原罪)について」、「愛とは?」、「人間の心の中にどうしてもできる虚無感」、「神とは?」、「神とキリストと人間の関係」を感動的に説いています。
「人はみな自己中心である。すべての人は自分を計るモノサシと、他人(ひと)をはかるモノサシと二つのモノサシを持っている。そしてこの自己中心こそが罪なの である。キリスト教では原罪と言っている。・・・そして自分が罪深いなどとは全く考えていない、そのことが一番罪深いことなのである。」
「出来心で他人のものを万引きしたりする。もちろん罪である。しかし一方、良くある‘いじめ’など言葉の暴力で相手を傷つけ、終には自殺に追い込んだという話をよく聞く。どちらの方が罪は重いのだろうか?」
「人間は自己中心であればあるほど神を嫌う。神を見ようとしない。これがキリスト教でいう ‘ 原罪 ’ である。」
繰り返しますが、「罪を罪と感じないことが(神の前では)一番の罪である。」ということです。
「人間は自己愛のかたまりである。もし人間に子に対する親の愛・本能的な愛を人間から取り去ったら、いったいどんな愛が残るのか?また子を育てるために必要 な、本能的な愛を崩し去るほどの根強い自己愛(自己心)も私たちのうちに潜んでいる。しかし神の愛は違う。自己愛を超えられるのは神の愛である。」
「聖書の有名な愛の章、コリント人への第一の手紙「愛は寛容である、愛は情深い。またねたむことをしない。愛はたかぶらない。誇らない、不作法をしない。自 己の利益を求めない。いらだたない。恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを望み、すべてを耐える。」
ここを読むとき‘愛’という言葉の代りに‘私’という言葉を入れて読んでみて欲しい。」
「神を認識することは人間にはできない。しかし認識できない神を信じることにより、人間は自己中心から生まれ変わることができるし、自己愛からも開放されるし、どんなに成功した人間にも、ついてまわる虚無感からも解き放たれることができる。」
「自分だけが弱いのではない。自分だけが苦しいのではない。自分だけがむなしいのではない。自分だけが惨めなのではない。自分だけが死を思っているのではな い。誰しもが、さまざまな苦しさ、むなしさに陥らざるを得ない。そのことを腹の底からよく認めたとき、私たちは‘虚無の隣に神がいる’ことを知り得るので はないだろうか。」
「虚無感は一時的に何かで紛らわすことができても、また虚無になる。虚しくならない人よいうのは、誰もその人から奪うことのできない実存を知った人間になった からである。虚無を満たすもの、それは実存でしかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実存する神である。この神を ‘ 信じる ’ (認識ではない) 時、私たちは虚無を克服することができる。」など等。
皆さん、是非読んで下さいね。新潮文庫版320円です。
もしメールいただければ、私が買ってきて進呈させていただきます。
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