平成23年4月5日  釈迦 ゴータマ・ブッダ(1)

4月8日はお釈迦様の誕生日です。

最近、私は瀬戸内寂聴さんの「釈迦」や羽矢辰夫さんの「ゴータマ・ブッダ」など、お釈迦様の生涯について乱読しました。


現在のネパールの中央南部からインドの国境地方にあたるとヒマラヤ山脈のふもとに、コーサラ国に従う小国ではあったが、スッドーダナ王に統治された「シャカ族」が平和に暮らしていました。
東隣りのコーリャ国とのあいだには、ガンジス河の支流が流れ、水争いが起きることもありましたが、婚姻もしばしば行われ、互いに親密な交流がありました。
シャカ族のスッドーダナ王もコーリャ族のマーヤ紀を娶り、この二人の間にゴータマ・ブッダが誕生します。
臨月に近づいたマ一ヤ妃は出産のため実家に帰ることになります。そして途中ルンビニーの花園に立ち寄り、サーラ樹の美しい花を見上げて、その枝に触れようと静かに手を伸ばした、そのときに陣痛が起こり、ブッダを出産したといいます。
紀元前463年、383年、560年、480年など諸説あります。





私はシャカ族の王子。私には冬用、夏用、雨季用の宮殿が用意され、そこで何一つ不自由のない優雅な暮らしが保証されている。
人は皆、「自分だけは年老いることはないだろう。自分だけは病気をわずらうことはないだろう。自分だけは死んでいくことはないだろう。老、病、死は他人事の話。自分自身の問題にしたくない。」このような思いで日々暮らしている。
しかし、遅かれ早かれ、その時は自分自身にやって来る。それまで築いてきたもの、いまあるものがすべて虚無に化し、まったく価値を失ってしまう。
物質的な豊かさは何の役にも立たず自らの存在の基底が突然消滅してしまう。
この空しさの感覚、生きることの無意味さの感覚は、「人生とは何であるか、わたしはなぜ生きているのだろうか。」
「死がまったくの虚無であれば、生は意味を失ってしまう。」
「農夫たちが鍬で掘り起こした土のなかの虫をあの鳥たちがついばんでいるではないか。生き物同士が互いに殺しあわなければならないのが現実である。」

ある日のこと、私は宮殿から遊園に向おうとしました。
最初の東門で、髪は白<、歯は抜け落ち、腰は曲がり、顔にはしわがあり、力なくやせ衰え、よぼよぼ歩いている老人たちに出会いました。
次に南門で病み衰え、苦しみあえいでいる病人に出会いました。西門では悲嘆の涙でくれる大勢の人々にかつがれ、野辺の送りに向っている死人に出会いました。
私はそのたびごとに、心乱されて引き返しました。
私は人間という存在そのものに由来する苦しみを深く自覚するようになりました。
そして最後に北門で、私は世俗のあらゆる汚れや悩みを離れ、顔色ははれやかで落ち着きがあり、深い洞察をたたえている出家修行者に出会ったのです。(四門出遊)

(古代インドの社会的慣習では、学問を修めてから結婚し、息子をつくって家長としての義務を果たしたのちに、森林に入って修行することが理想とされていました。断食や苦行を行い、座禅や瞑想に耽って、哲学的な思索を深めるとともに、宗教的な境地を求める、という出家の慣習は決して珍しいものでもなく、社会的な容認が存在していたようです。)





あなたの最も若い花嫁としてあなたの許に嫁いだのは10歳の時でした。あなたは20歳ですでに二人の妃がいました。最初に嫁がれたコービカー妃はあなたより5歳年長で、二番目のミガジャ一妃はあなたより2歳年長でした。お二人ともお子さまが生まれてはいませんでした。後から入内(じゅだい)した私が正妃だったのは、出自の身分によると後で知りました。

あなたのお父さま・スッドーダナ王のご命令で私たちの結婚を早められたのは、あなたの持病の気鬱症が重くなったので、幼い私の無邪気さが若い王子の憂鬱を晴らすよすがにでもなれば。と。





50年も前のことだ。私が妻のヤソーダラーや、生まれたばかりの息子のラーフラが眠っている隙に、カビラ城を夜中に脱出して、出家者としての道へ走ったと童、私の失踪に気づいたヤソーダラーが、地団駄踏んで、髪をかきむしり、夜叉にように荒れ狂った。私に怒っていた。

あの夜は、ヤソーダラーは私がそれとなくすすめた酒によい、熟睡していた.私は音をたてず寝台から抜け出し、妻と子の寝顔をしばらく見つめていた。月光が窓から射し込み、その光に染められたヤソーダラーの寝顔はどんな女神よりも清らかで愛らしかった。ラーフラはまさに天使のようだった。

何も知らずに安らかに熟睡しているふたりは、いまどんな夢をみていることか。その時、わたしははっと気づいたのだ。妻をどれほど愛しても、性愛でふたつの身体がひとつに溶け合って陶然となっても、私たちは同じ寝床を分かち合いひとつになって抱き合っていながら、同じ夢を見ることはできないのだと。人はひとりでこの世に生を受け、やがてひとりで死んでいく。母のマーヤも愛する夫や産み落としたばかりの私を残して一人で死んでいったではないか。「いずれは独りになるのだ。早いか遅いかの違いだ。この不人情な夫や父を許しておくれ、ヤソーダラーよ。ラーフラよ。」

私は一気に王宮の外へ駆け出していった。馭者(ぎょしゃ:馬をあつかう者)のチャンナを起こし、愛馬のカン夕カを連れてこさせた。中庭で私は馬上の人となり、チャンナが馬をひいて王宮の門を出た。普段は象のカでも開かない城門の閂(カンヌキ)が不思議になんの抵抗もなく開き、私たちは難なく城の外に出ることができた。いつしか月は厚い雲に覆われ、私たちの脱出は誰にもとがめられなかった。こうして私はついに家庭を、恩愛の絆を断ち切って出家の道へと踏み出したのだ。まだ29歳で、私は漆黒の豊かな髪を持っていた。

私たちは東へ東へと進んでいった。私を乗せて喜んだカンタカは、王宮が全く見えなくなった時、喜びをあらわにして高く噺(いなな)いた。私を信頼し、いつでも絶対服従のチャンナは、不安を押し隠したまま一言も発しなかった。
夜の明けるころ、私たちはア一ノーマー河のほとりにたどりついていた。朝日がゆらゆらと上り、川は朱を流したように鮮やかに染め上げられていた。私はそこでカンタカの背から降り、着ていた宝石をちりばめた上着を脱いでチャンナに渡した。宝石のちりばめた冠をはずし、それもチャンナに預けた。チャンナは泣きすがり、私に出家を思いとどまってくれと、なかなか別れようとしなかった。

チャンナは悲嘆のあまり、往きは一晩の道を8日もかかってようやくカビラヴァトゥにたどりついた。
チャンナは王や王妃やヤソーダラーに呼び出され、形見の品を差し出し、王子の出家の決意を告げた。スッドーダナ王はその場で気を失ってしまった。気の強いヤソーダラーは地圧駄踏んで髪をかきむしり、チャンナを罵倒した。マハーバジャーティーも心痛のあまり、王の上に打ち重なって気を失っていた。カンタカは王子を失った悲しみのためか、嘶くことを忘れ、日毎に衰弱して餌も食べずに死んでいった。チャンナはカンタカの死の前後からどこへともなく失踪して、姿を隠してしまった。



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