平成27年7月28日  渋沢栄一 道徳と経済は本質的に一致する


道徳と経済は
本質的に一致する

渋沢栄一(1840〜1931)の「道徳経済合一説」とは一言で言えば「道徳と経済は本質的に一致する」ということです。

「道徳」には、消極的道徳と積極的道徳があります。消極的道徳は「為(な)すべからざることをするな」ということです。コンプライアンス(compliance 法令遵守)とか、企業倫理といったものを連想させます。積極的な道徳は「為すべきことをせよ」ということです。使命とか志とかに当たります。

「経済」という言葉にも二つの意味が渋沢の用語にはあって、一つは富とか利益、もう一つはそれを生み出す事業活動を指します。

こうした意味をとらえた上で、「道徳経済合一」なのですが、渋沢は『論語』を一番大事な愛読書にし、儒教を信奉していました。「道徳経済合一説」は、渋沢による独特の儒教解釈だと言われています。

渋沢は、道徳と経済は、本質的に一致すると言っています。道徳と経済とは紙の裏表、表裏一体だ、ということです。紙の表に道徳、裏に経済と書いてあり、紙ですから透けて見えます。道徳の側から見れば経済が透けて見え、経済の側から見れば道徳が透けて見えます。このように表裏一体だというのが、「道徳経済合一」です。     
その表裏一体だという時に二つの見方があります。一つは道徳の側から経済を見ます。「道徳なくして経済なし」ということです。これを ” 道徳=経済説 ” と、私は呼んでいます。もう一つは経済の側から見ます。「経済なくして道徳なし」です。こちらは ″ 経済=道徳説 ″ です。この考え方に渋沢の独特のところがあり、ここが最もロータリアンと通じるところではないか、と思います。

「道徳なくして経済なし」というのは、消極的な道徳です。悪いことをしてはいけない、悪いことをしてしまうと、経済が立ちゆかなくなるということです。渋沢の当時、商売に関わる消極的道徳を一般に「商業道徳」と呼んでいました。彼は商業道徳についてさまざまなことを説いていますが、煎(せん)じ詰めれば、二つに尽きると私は思っています。一つは「不誠実に振る舞うべからず」。もう一方は「自己の利益を先にすべからず」。裏を返せば、誠実に振る舞え、他者の利益を先にせよ、ということです。

今のグローパルな資本主義の中で言われているのは、第一の「不誠実に振る舞うべからず」だけです。しかし、渋沢はそこでは満足しませんでした。「自分の利益を先にするな」という、もう一つの道徳を持ち出しました。

「不誠実に振る舞うな」について、「誠実さが事業活動の根本だ」「商人にとっては信用こそが根本だ」というのは、当たり前のことです。しかし、この当時は「商人と屏風は曲がらねば立たぬ」「うそも元手の内」といったような、いろいろなことわざがあったはどです。それにもかかわらず渋沢は、うそなんかつかずに商売できると、明言しています。

渋沢は「不誠実に得た利益は永続きしない」と言います。正直に商売することで、十分な利益を得ることができる。ここで大事なことは、「十分満足な」利益ということです。「十分な」とは何を意味しているかというと、私が思いますにはステークホルダー(stakeholder 利害関係者)を満足させ、企業が存続・成長していくための再投資もきっちりできる、それだけの利益水準です。

「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできない」「真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものではない」と渋沢は言っています。彼は利益の永続性というところに、重点を置いているのです。

もう一つの商業道徳が「自己の利益を先にするな」、つまり「他者の利益を先にせよ」ということです。皆が自己利益を第一にしたら、経済どころではなくなります。「こぞって先を争ってしまったら、結局は経済活動そのものが滞ってしまうのだ」と渋沢は言っています。そういう警告を発しているわけです。

こうやって商業道徳を守ることが、同時に商売というものを正当化する上に不可欠なのだということも ″ 道徳=経済説 ″ にはあります。渋沢は「正道を踏んで得たる富貴(富とか地位)というものは、決して卑しみ捨てるべきものではない」「人は富を汚らしいもの、汚いものであると見ずに、正しい方法によってこれを得るように心がけなければならない。富貴になれば道徳より遠ざかるという古人の考えは誠に間違っている」と痛烈に批判をしています。


為すべきことを為せ

次に「経済なくして道徳なし」、つまり ″ 経済=道徳説 ″ のお話をしましょう。ここからがいよいよ渋沢の本領発揮というところです。渋沢にとって「為すべきことを為せ」という積極的道徳の究極は何かというと、「博施済衆(はくせさいしゅう)」すなわち広く民に施して衆を済(すく)う」ということです。この言葉は『論語』の中に出てくる言葉です。これを渋沢は、孔子が説いたいろいろな教えの中の、一番重要なことだと考えました。

「博施済衆」は言い換えれば、公益の追求。これが渋沢の思想の核心であったと言っていいと思います。渋沢はこの思想に裏付けられて、多くの会社をつくり、公益事業にいそしんだと考えられます。

例えばそれを経済の、企巣の観点から渋沢は「真正の国家の隆盛を望むならば、国を富ますということを努めなければならぬ。国を富ますは科学を進めて商工業の活動に依(よ)らねばならぬ」と言っています。これも今聞くと当たり前のことだと思いますが、江戸時代も明治の初期も民を豊かにする仕事は、お上の仕事だと考えられていたはずです。「博施済衆」も、孔子は商人に向けて言ったわけではありません。国を 治める立場の人に向けて言ったわけです。

「今まではお上が民を豊かにするという役回りだと言われてきたが、これからは民間のわれわれがお互いに水平の関係の中で、みんなを豊かにしていく、富ましていくことをしなければいけないのだ」と考えたところに、渋沢の「新しさ」があります。

ただ、公益の追求が大事だ、博施済衆が大事だ、と言っても、それに携わる人が何の利益も得られないということでいいでしょうか。「これだけ立派な活動をしているのだから、あなた、報酬などいらないでしょう」というわけにはいきません。これがもう一段のところです。

普通、われわれは道徳というと、清貧の徳などと言って、貧乏するのが道徳だというように思いがちですが、渋沢はそんなことは考えていません。一人ひとりが豊かになっていくこと、これが道徳の基本だと言っているのです。何も世の役には立たない、自分だけがもうかっている、そのような事業は非常にはかない、もろい事業だと言うのです。ここに「道徳経済合一」というものの芽があるわけです。

「道徳なくして経済なし」と「経済なくして道徳なし」をもっと煮詰めてみた時、最後のエッセンスは何でしょうか。

渋沢の真意を理解するための鍵になるのが、これも『論語』の言葉ですが、「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」ということです。君子というのは、何が為すべきことかに敏感である。小人(取るに足らない人)は、何がもうかるかということに敏感だと。

ここで注目しなければならないのは、「義に喩る」ということです。今道友信(1922〜2012)という哲学者が「義」という漢字について、次のように述ペています。

「義」は、上に羊という字があって、下に我という字がある。昔、中国では羊や山羊を犠牲の獣として捧(ささ)げました。「義」という字は、その羊を「我」が背負っていることを表しています。祭が大変重い意味を持っていた古代、羊を背負って犠牲の台に置くその人は、垂直方向と水平方向の二つの大きな責任を、負っていることになります。

垂直方向は天に対して、水平方向は自分たちの村とか、共同体に対してという意味で す。その責任が「義」だというわけです。「義」は、一般的に justice と訳されることが多いですが、そうではなく、 responsibility だと。responsibility が「義」の本当の意味だというのは、私もおそらくそうだろう、と思います。

渋沢は万事につけ「義」に喩ったわけです。これも渋沢の言葉ですが、「余は何時でも事業に対する時には、これを利に喩らず、義に喩ることにしておる。まず道義上より起こすペき事業であるか盛んにすべき事業であるか否かを考え、利損は第二位において考えることに致しておる」。しかし、利のことを無視しているというのではありません。どちらを先に見るか、という時に義の方を先に見る、ということです。

一言で言えば「公益が第一、私利が第二」だということだと、私ほ思います。このフレーズ自体は、渋沢は使っていません。利損を第二にするということは言っていますが「公益が第一、私利が第二」というのは、私がこしらえたフレーズです。


「公益第一、私利第二」で
「見えざる手」を賛ける

21世紀に求められると私が考える「経営者精神」を一言で言うと、「公益第一、私利第二で見えざる手を賛(さず)ける」ということです。従来の市場経済の常識は、20世紀中終わりごろから限界にきています。従来の常識とは何かというと、イギリスの経済学者であり思想家であるアダム・スミス(1723〜90)の話を思い浮かべてください。一人ひとりがルールを守って、正義を守っている限り、つまり正しく商売をしている限りは、あとは、熱心に自己利益を追求するのがよいと考えました。個々の経済主体が、そうやって自己利益を追求していると、「見えざる手」が働いて、結果として経済や社会に秩序が生まれて、そして繁栄をしていく、というのです。

ところが、あるところまでいくと「見えざる手」が機能しなくなってきてしまいます。つまり、一人ひとりがいくら正しく熱心に営利を追求していても、それだけでは社会はうまくいかなくなってしまいます。これを経済学の言葉では「市場の失敗」と言います。

では、なぜこのような限界が出てきたのか。その根本原因を探ってみると「消極的道徳さえ守っていれば、あとは熱心に商売をしてもいい」ということがあると思います。 これがこれまでの常識ですが、そこで抜けているものは「為すべきことをせよ」という「積極的道徳」です。商売をする人たち、とりわけマーケットの世界の人たちにとっては、「使命感」のような積極的道徳など必要がない、という人も少なくないでしょう。

でも、ここにこそ、「見えざる手」が働かなくなる原因があるのではないでしょうか。

それではいけない、というので、企業の次元だけに限って見ればCSR(Corporate Social Responsibility 企業の社会的責任)が言われるようになってきました。CSRは、高度成長期にも一度議論が盛り上がりました。またこの10〜20年ぐらいで、CSRは盛んに言われるようになってきました。

旧来型のCSRは、公益の偏重、私利の軽視という特徴を持つように私には思われます。「企業はもうけているのでしょう。もうけた利益を寄付しなさい。フィランソロピーに充てなさい。メセナをやりましょう」。これはある意味で、もうけたことへの罪滅ぼしです。こうした議論の歴史を振り返ると、その根底には「大企業がもうけるのはけしからん。利益を上げているのは何か悪いことをしてもうけているのだろう、もうけたものを社会に出せ」といった反企業的な考え方があったように思います。

それに対して、ここ10年くらいで出てきたのがCSV(Creating Shared Valure 共通価値の創造)です。CSⅤはマイケル・ポーター(1947〜)というハーバード・ビジネス・スクールの先生が言い出しました。要するに、企業は社会的課題(貧困、環境問題など)に対処すると、同時にもうけることもできるのだ、ということです。

しかし、ここにもまた問題があります。CSVの目的、少なくともポーター教授が言っているCSVは、利益を上げるというのが究極の目的です。つまり究極の目的は私利にあります。それの手段として公益を使おうとしています。「小人は利に喩る」方の話を、CSVは言っているように私には思えます。

従って、従来のCSRとCSVは両極端なのです.この両極端の中庸をいくのが「公益第一、私利第二」ではないか。これが私の考えていることです。「公益第一、私利第二」が「見えざる手」を助ける。もし「見えざる手」というものに意思があるとしたら、「見えざる手」も同じように公益の増進ということを考えて、社会や世の中がよくなるように、そのためにいろいろな助成をLているはずです。「公益第一、私利第二」で仕事をしている人たちは、そうした「見えざる手」の意思と同じ意思、同じ方向を向いていることになります。つまり「見えざる手」と、目的を共有しています。

私は「公益第一、私利第二」で仕事をしている商人を「君子の商人」と呼んでいます。「君子の商人」とは渋沢の言葉でもあります。どちらかというと、CSRの側とは近いような気がします。しかしCSRの側と決定的に違うのは、「君子の商人」は、私利も重視しているということです。人々が無欲恬淡(てんたん)では「見えざる手」 は働きようがない。みんなが.利益を得たいと思って頑張っているから、その結果「見えざる手」が働くのです。それなのに「利益を得るのはいかがわしいことだ、卑しいことだ」と言ってまったら、「見えざる手」の出る幕はなくなってしまうでしょう。

最後にもう一つ申し上げたいのは、「公益第一、私利第二」と順番をつけることの重要さです。第二を明示することで、本当の第一が強調されます。これは「宅急使」というサービスをつくった実業家の小倉昌男(1924〜2005)氏の話に、私がヒントを得ました。小倉氏は宅急便を立ち上げる時に、「サービスが先、利益は後」を強調しました。

大和運輸(現ヤマトホールディングス)の2代目だった小倉氏は、若いころ、地方のある運輸会社に出向しました。そこは交通事故や労災車故の多い会社でした。事故を何としても減らさねばならないということで、たまたま近くの木工会社の成功事例から学んだのが「第二を示すこと」の重要さでした。安全第一、安全第一と「第一」ぱかり言っていると、結局、安全はないがしろにされてしまう。そこで小倉氏は「安全第一、営業第二」という標語を掲げました。営業が大事だ、ということは皆わかっているわけです。しかしその大事な営業よりも、さらに安全が第一だということを強調したのです。その結果、労災は着実に減っていき、しかも同時に、営業の方はむしろ活発になっていきました。

ここで小倉氏が言っているのは、「経営者という申のは何でも第一、第一と言いたがる。しかし、第二がなくて第一ぱかり言うのは、本当の第一がないということではないか。本当の第一をハッキリさせるためには、第二を明示しなければいけない」ということです。

結局、ただ「公益第一」「博施済衆」と言っているだけでは、本当にそれが大事であるということがクローズアップされない。むしろ「公益第一、私利第二」と第二に私利を持ってくる。私利も大事なのだと言うことによって、公益の重要さが際立つということです。

まったく同じことはロータリーの第一標語「Service Above Self (超我の奉仕)」と言い換えても成り立つと思います。Service第一である、しかしAbove Selfということは、そこにしっかりとしたSelfがある。きっちり利益を上げて、幸せな生活をしている自分というものがある。その自分を実現できて、さらにその上にもっと大事なものとして、Serviceというものがある。

皆さんがすでに実践されているかもしれませんが、今日お話したような「道徳経済合一」というまた別な立場から、いままでとは違うレンズでご覧になって、何か感じていただけることがあれば、大変うれしく思います。


一橋大学大学院商学研究科教授 田中一弘 氏  



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