平成27年6月23日  見えないから 見えたもの


生まれてきた時は
みんな真っ白な心


人と逢う人生でした。目がまったく見えない。そういう人生を60年以上もやりました。私は1945(昭和20)年、中国の天津で生まれました。私が生まれてすぐに日本が戦争に負けて、引き揚げてきました。その引き揚げの船の中で、赤ん坊の私は風邪をこじらせ肺炎になり40度の熱が出て、その熱が、右の目を完全に壊したのです.左も壊れましたが、なんとか見えましたから、普通の小学校へ行きました。

当時、小学校一年で1クラスに60人いました。教室が広くて黒板が遠いのです。後ろの席からでは全然見えません。「ああ、きみは目が見えんな、よろしい」。先生はそれで終わりましたが、子どもの世界は厳しかったです。「竹内おまえ、あの大きな字見えんのか。おまえはめくらじゃ」。ぼろくそに言いよりました。学校に行くのがいやになりました。でも行ったのです。行かなかったら、負けたことになる。この負けん気の強さが一つの支えでした。

もう一つは、行かないと親が心配すると思ったのです。幼稚園の時のことですが、よく覚えています。当時、倉敷中央病院の先生が私の目を診て「お母さん、この子の目はほとんど見えていない。この目は一生治りません」とはっきり言われたのです。病院の隅っこまで行って、母がしゃがみこんで激しく泣きました。「昌彦、昌彦」って私を膝の上に抱き上げて泣きました。涙がいっぱい降ってきました。あの時、「大好 きな母親が、私のことでこんなに悲しむ。これ以上心配はかけられない」と思いました。

今から思うと私もかなりのワルで、派手にいろいろやりました。学校から帰ると、ワルが家の所で待ち構えています。「来た、石を投げろ」。目が見えないからというだけで、何で石を投げるのか。体が震えるほど腹が立ちました。私は黙ってひっこんでいませんでした。風呂の洗面器に学校の砂場の砂をすくって、ワルの家に行って、玄関を開け、座敷をめがけてバサッと砂をまきました。すかっとしました。

おばさんが中から飛んできて怒りますが「おばちゃんとこの子が、僕にめくら言うて石投げたからな、代わりに砂投げた」。必死で訴えました。おばちゃんもわかったのですね。「僕、ちょっとここで待ってなさいよ」。自分のところのワルの首根っこをひっつかまえて戻ってきました。自分の子に向かって怒った怒った。「あんたはな、この子に何をしたんで。お母さんの前でちゃんとあやまりなさい」。昔の母親は、今の若いお母さんに比べると学歴もなかったのですが、ああいう時に、きちっと自分の子どもの非を認め、子どもをしつける力は十分に持っていました。

一年生の時はいじめられましたが、二年生になったら途端にいいクラスになりました。二年生のクラス担任、島村清という先生が立派でした。最初の日に「みんな、よう聞きなさい。このクラスの竹内君は、赤ちゃんの時の病気でよく目が見えん。だからこの部屋でこの黒板の字が一番よく見えるのには、どこに座ったらええと思う? みんなで考えてみよう」

「先生、一番前です。竹内君は一番前がいいと思います」「私もそう思います」「そうです」「そうです」。みんなが言います。先生は「よっしゃ。一番前だね。竹内君ここにおいで。この席を、竹内君にする。ここは1年中席替えをしない。みんなええか」「ええでーす」

私の目のことを、みんなにきちっと知らせました。それは、いじめのためではありません。弱い竹内の目をどうやったらいいか、みんなで考えていこう、という提案です。

先生はいつも黒板に大きな字を書かれて「竹内、この大きさで読めるか。この数字が読めるか」と。私の右手に座っていた女の子は世話好きでした。私のノートを見ては「竹内君、その字、黒板のと違うとるよ。私のノート見て」。授業が終わったら、私のところにノートを持って2人も3人も来ました。「竹内、わしもおまえがよう見えるように、ノートに大きな字で書いたけど見るか」。1ページに字が四つしか書いて
ない。「2Bで書いたぞ」。竹内に親切にすると、先生に褒められます。

これが正義です。先生は、一度も人権とか差別という言葉は使いませんでした。でも、人として何が正しい行いか、きちっと数えられました。子どもは、生まれてきた時はみんな真っ白な心です。そこにどのような絵を描くか。それは親の、教師の姿勢によります。

二年生の2月10日のことでした。学校の帰り道で、残っていた私の目は突然見えなくなってしまいました。網膜はく離という難しい病気でした。大学病院に入院して、手術も受けて、絶対安静で粘ったのに、当時の医学では治せませんでした。母は私にこう言いました。「昌彦、もう黒板を見て勉強はできない。でも、目が見えんでもちゃんと勉強を教えてくれる盲学校というのがあるんよ。ちょっと遠いけどお母さんがちゃんと送り迎えをしてあげるから。盲学校へ行って一番になろう」

今でも、自分の子どもを障がい児のクラスに入れるのを、恥ずかしがる親が大勢います。私の親は、60年前に自分の見栄も外聞も捨てて、私が一番勉強しやすい学校はどこか、それを冷静に見抜いてくれたから、今の私があります。


みんなのために
使えない100点は
取れても仕方ない

盲学校ではいじめはありませんでしたが、成績はあまりよくありませんでした。中学一年生の社会科は中原玲子という先生でした。目が見えない子に地図を教えるのは難しいことです。でも、60人いた一般の学校と違って、1クラス6人になり、ゆとりがありました。一人ずつ手を取ってわかりやすく教えてくださるから、授業がようわかって「勉強っておもしろい」となり、予習をする、復習もする、ノートもつけ、成績はぐっと上がりました。中学一年生の終わりの通知簿はオール5になりました。

中原先生は私を呼んで「よくやった」と褒めてはくださったのですが、その後がいけません。「でもね、竹内君。あなたのこの5は、一つとして本物ではありませんよ。あなたは、自分だけわかればいいと思っています。クラスに勉強の苦手な友達がいます。その子に親切に丁寧に教えてあげなさい。そうしたらあなたの5が、初めて本物になります。みんなのために使えない100点なんて取れても仕方ありません。来年は、みんなのことも考えて、本物の5にしてみせなさい。私はずっと見ていますよ」

中学三年生の時は、進路のことで悲しい思いをしました。一般中学の友達は好きな学校を選べるのに、私の盲学校には当時はあん摩(マッサージ)、鍼、灸のコースしかないのです。高校時代はあほらしくなって勉強を投げました。難しい年頃でした。でも、運が良かったのです。高校2年生の夏休み、自分を克服できました。

近所のおばさんが、うちにきて母にぼやきました。「肩が痛うてかなわん」。そのおばさんが私を見つけて「ぼく、盲学校であん摩習いよん? ちょうどよかった、おばちゃんが練習台になってあげる」。20分くらいあん摩してあげたら、おばさんが「あんなに動かなかった手が動くようになった」と言って大きなスイカを2つも持ってすぐ戻ってきました。「おばちゃんがあんたに助けてもらったお礼よ、ありがとう」って。

私は、あのおばちゃんの肩を治せるやつがいるか、あん摩ってあんなに効くのか、あんなに大人が喜ぶのか、と思いました。それで、夏休みから勉強をやり直しました。そうしましたら、成績も上がったのです。先生は「竹内、やる気があるのなら、大学へ行って教師になる道がある。お母さんもそれを望んでおられたぞ」。私は教師になることを選びました。

教師になって、あのおばちゃんの肩は、ちょうど治る時が来ていたからではないのかなあ、と。そんなに簡単に治るわけではありません。人間がおめでたいから、「治した」とその時は思い込んだのですね。運が良かったのです。

もう一つ運が良かったのは、とてもいい親に恵まれたということです。子どもにとっていい親に恵まれるかどうかは、これは運以外の何ものでもありません。私の目が見えなくなったのは今から60年前。家に目の見えない子がいると、親ですらその子を家の奥に隠した時代です。「世間体が悪い」ということです。しかし、私の親は目の見えない私の手を引いて、世間知らずになるなと、どこへでも連れていきました。

1964(昭和39)年に開催された東京パラリンピックは、この大会が始まってまだ2回目のことでした。だから、日本の障がい者はどさくさまぎれに、いっぱい参加しました。私も行きました。昔が出るボールの卓球で、金メダルを取りました。
大勢人が見送りに来てくれた中に、父も母もいました。父は無口な、おとなしい男でした。最後まで何も言わない男でした。そんな父が、いよいよ発車のベルが鳴り、列車が動き出すと、デッキに立っている私に向かって、大きな声を張り上げたのです。「竹内昌彦万歳!」。あの父が三べんも叫んだのです。びっくりしました。でもうれしかったです。

父に言わせると、「この目の見えない子をわしがここまで大きゅうした。この子を育てて良かった」。あれこそ、重い障がいのわが子を育てた父親の、勝利宣言以外の何ものでもなかったと思います。「お父さんありがとう、お父さんのおかげでこんな立派な体をもろうて、お父さんのおかげで東京へ行かれる。ありがとう」と涙をこらえて、そうつぶやくのがやっとでした。


元気な体をもらったことは
幸せなこと

私は教師になりました。幸せな結婚もしました。でもそこで、人生で一番悲しいことが待っていました。最初に生まれた男の子は重い脳性小児まひだったのです。目が見えない夫に嫁ぎ、体の動かない赤ん坊を抱えて若い母親は、心の中で絶望したと思います。でも、愚痴は言わない強い人でした。

昭和40年代、どの幼稚園も保育園も「そんな子はとても預かれません」と門前払いでした。でもたった一つ、今もありますが岡山市の「あゆみ保育園」 の先生は違いました。うちの子を抱きとめてくださいました。手を合わせて拝みたいほどうれしかったです。

岡山市は反対しました。保育園は障がい児施設ではない、すぐに連れて帰りなさい、と。しかし保育園の先生はがんとして譲りません。「市民の子どもが市の保育園に来て何が悪い」。当時は岡崎平夫という市長でした。その市長が最後に市議会で決断したのです。「あの子を保育園から出したら、あの子はどこに行かれますか。岡山市は今年から障がい児保育を始めます。その保育園は全面的に援助します」と条例を変えてくださったから、それ以後、岡山の障がい児は保育園に入れるようになりました。

それがうちの子にとって一番いい時でした。あの子は七歳で肺炎を起こして死んでしまいました。一度も自分の足で歩けず、一度もお父ちゃんともお母ちゃんと言えず、あの子は死んだのです。同じように人間の子どもに生まれてきて人生は不公平です。あの子はあんな体でも一生懸命、生きようとしました。

今、学校の課題の一つはいじめ。いじめが原因で子どもが首をつった、死んだ、などというニュースをお聞きになっていることでしょう。でも私は、その死んだ子に腹が立つのです。自分で死ぬやつがあるか、と思うのです。元気な体をもらったのに、簡単に首をくくるやつを、私は許せないのです。

あの戦争中には、何万という子が死にました。四年前、東日本大震災で大勢の子どもたちが津波にのまれていったではないですか。この平和な世の中に生まれてきて、この安全な大地に生きて、自由に動く体をもらってなぜ、首をつるのだ、と言いたいのです。元気な体をもらえただけでも、それがどんなに運が良くありがたいことか、それをまずかみしめていただきたいのです。

と同時に、障がいのある子を一生懸命育てている家族のことを、その親がどんな思いでいるか、兄弟姉妹が小さな胸をどんなに痛めている
か、ということも、考えられる人でいてほしいのです。そういう家族に「その子も一緒に遊びにおいでよ」「一緒にご飯を食べよう」、そういう優しい言葉がかけられる人でいてほしい、第一の願いです。

二つ目は、この子どもたちに、人から「ありがとう」と言われた経験をたくさんさせてやろうじゃないですか。私が立ち直れたのも、あの肩が痛かった近所のおばさんが、心から「ありがとう」と言ってくれたからです。ですから、子どもたちがちょっといいことをした時には「ありがとう、お母さん助かったよ」「お父さんうれしい」と言ってやってください。その子は次の日、もっといいことをしよう、と考える子になり、立派な大人になります。

三つ目は「しっかり勉強しなさい」です。学校に行って学ぶのは、立派な人になるためです。困っている人のために自分を生かそうとするのが、立派な人です。たくさん学んだ人が、大勢の人を幸せにするのです。

今、日本で400人子どもが生まれてくるとその中で1人、目の見えない子が出るのです。1人、耳の聞こえない子が出るのです。あと20人ほどが、知的情緒、手足の障がいを持って生まれてきます。そして、380人が、元気な体をもらえるのです。

私はその400本に一本しかない貧乏くじを引きました。残念です。でも、私がそれを引き受けたから、私は399人分の目玉を守った、とも言えるのです。皆さんの耳が今聞こえるということは、どこかに、聞こえない人生を引き受けてくれた人がいるということです。障がい者こそ、皆さんの代わりに不自由な人生を引き受けたから、皆さんには元気な体が回っていった、ということです。

それを使って幸せになっていただきたいのですが、皆さんの代わりをした運の悪い人がいたことを覚えておいてほしいと思います。そういう人のために、皆さんの幸せの1パーセントでいいから出してやってもらいたいのです。幸せが1パーセント減るけど、自分のことばかり考えて終わる人生に比べたら、はるかに値打ちが出て輝きます。

頭が良くても根性が負けていたら、勉強をしてもらわなくていいのです。周囲の人にやさしい言葉がかけられる人の方が、人としてはるかに上です。人のやさしい心の上に、学問を広げて、初めてみんなに喜ばれます。中学一年生の時の中原先生は、勉強にのめりこんでいく私に、それが言いたかったのだと思います。やさしい人になる。そういう人の周囲には人が集まってくる。幸せになります。

私は今、幸せです。人に言うだけではいけません。私は1パーセント、人のために何かやらなければいけません。それで考えました。日本の盲人にはあん摩、鍼、灸の仕事があるから生きてこられましたが、よその国にはその仕事がありません。だから今でも貧乏で、人から厄介者扱いされています。

なぜ、日本の盲人にだけ、この仕事があるのだと思いますか。400年前、江戸時代初期、今の三重県、伊勢国に杉山和一(1610〜94)という人が出ました。武土の子でしたが、はしかで目が見えなくなり、家督を弟に譲って江戸に出て鍼を習ったのです。名人になりました。誰も治せなかった五代将軍、徳川綱吉(1646〜1709)の病気を鍼で治しました。もらった褒美を使って、全国に45か所も盲学校を建てました。そこへ自分の弟子を教師として送り込み、自分の書いた本を教科書にして、全国一斉に盲人にあん摩、鍼、灸を教育したので、以後、日本の目が見えない人は、この3つで生きてこられました。

私も一か所でいいから、マッサージを教える盲学校をつくれるといいな、と思いました。それで、モンゴルに10人程度の小さな盲学校をつくりました。最初に卒業した男の子は、道路上で物乞いをしていたそうです。今はマッサージで稼いで嫁さんももらっています。人生が変わった、とものすごく喜んでくれました。

子どもたちに、私は言うのです。「人生うまくいかんぞ。行きたい学校には行かれない。好きな人には振られる。やりたい仕事には就けない。思うようにいかないことがいっぱいあるけれど、毎日力いっぱいやってみよう、必ず、幸せが見つかる」と。

友達には「仕事も大事、お金もうけも大事。でも、それだけなら誰でもやっていることじゃ。おもしろい人生をつくろう、さらに言うなら粋な人生をつくろう、粋な人生を生きた時に、おもしろうなるで。生きていて良かった、と言って死ねる人生をつくろうじゃないか」と、言ってきました。最後までありがとうございました。


岡山県立岡山盲学校講師  竹内 昌彦 氏  



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