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いささか旧聞に属するものですが、江国香織さんのイタリア・フィレンツェを舞台にした恋愛小説「冷静と情熱のあいだ」が大評判になりました。
専ら女性主人公の視点から描かれていたものですから、これを相手の男性主人公側からの視点で同じストーリーを同時系列で辻仁政さんが見事に描きあげ、前者を赤本、後者を青本として売出しベストセラーになりました。
大学卒業後、油絵の修復士としてイタリア・フィレンツェの工房で修行に励んでいた一人の日本人若者・順正が、学生時代深く愛し合った香港からの留学生・アオイのことをどうしても忘れることができなかった。ちょっとした諍いで別れた二人。或る日友人からアオイが今、ミラノでアメリカ人男性と幸せに暮らしていることを知る。そして彼は二人が愛し合っていた時に約束した「10年後の私の30歳の誕生日にはフィレンツェのドウモのクーポラで会ってね」というその言葉を離れ離れになってもずっと忘れることが出来ずにいた。
ついにやってきた彼女の30歳の誕生日にでクーポラを目指して登っていく…。
青本(辻仁政)より。
「ドゥオモはフィレンツェの街の真ん中に聳えており、大抵どこからでも見ることができる。天才建築家ブルネッレスキによって掛けられた半球状の円蓋クーポラは、スカートをふくらませた中世の貴婦人を見るようでほほえましい。チェントロ(街の中心地)の方角を確認するにはいい目印になる。花の聖母教会とも呼ばれるこの大聖堂の、白と緑とピンク色の大理石で装飾された外観は威厳と優雅さに溢れ、見上げる者を圧倒する。」
「ぼくのアパートはフィレンツェの街が一望できるほどの高台に建っていて、眼下にアルノ川が流れている。窓から顔を出すと少し先にポンテ・ヴェッキオが見える。フィレンツェのくすなだ橙色の屋根、屋根、屋根。」
「この街が気に入った最大の理由は、なんと言っても空の寛大さと気前の良さのせいだろう。ただの空なのに、見上げているだけで心が優しく包みこまれていく。きっとこのドゥォモの展望台から見るフィレンツェの360度遮るもののない空はぼくを圧倒するに違いない。」
「ぼくの仕事は滅びつつある名画をどのように元の状態に近づけて生き返らせるかにある。できるだけ意識を過去へと投じて、画家がどんな思いで、この絵を描いたのかを想像するところから始まる。画家のことを調べて、ときにはその画家に成りきって、絵を修復するのだ。」
「自分が修復した作品が、千年後にまた誰か別のレスタウラトーレによって修復されるだろうことを想像しては、胸がいつも熱くなるのを感じる。千年後の人々へ、ぼくはバトンを渡す役目を担っているのだ。僕の名前は後世には残らないが、僕の意思は確実に残ることになる。ぼくは、画家が生きた遠い過去を現代に近づけ、そして未来に届ける時間の配達人なのである。」
「イタリア語でルネッサンスのことをリナシメントという。かって再生を意味する言葉だったが、現在では15,6世紀にかけてイタリアを中心に興った一大文化活動のことを指す。フィレンツェはその発祥の地である。近代的なビルをここで探すことは不可能に近い。
16世紀以降、時間を止めてしまった街。まるで街全体が美術館といった感じ。冬は暖房が効かず凍えるように寒く、夏はその逆で風が抜けずに暑い。それを愛せなければここで暮らすことはできない。正午をしらせる寺鐘が轟き、クーポラから数羽のハトが飛び立つ。」
「この街は中世の時代からぴたっと時間を止めてしまった街なのよ。歴史を守るために、未来を犠牲にしてきた街。」
「愛してるよ。はじめてその言葉を使ったのは、いつのことだっただろう。あれほど肉体関係を持ちながら、ぼくたちは、愛、という響きに用心していた。いやぼくたちではない。アオイはぼくの前で、愛という響きを使ったことなどなかった。不安になり「愛してないの」と聞き返した。アオイは視線を逸らして、そんなことない、と言った。愛という言葉を大切にしているに違いない。と良心的に取ることもできたが、正反対にも思えた。ぼくはそれ以降、アオイに対して愛の確認を求めることができなくなってしまったのだ。愛という言葉そのものが、オーソドックスな詐欺の手口のように思えてならなかった。」
「後悔のない人生なんてあるのだろうか。ぼくはずっと後悔し続けている。生涯、後悔から逃れられないような気がする。」
「ミラノに着いた翌々日、早速サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会脇に隣接する建物へと出かけた。そこは大昔、修道僧の食堂だったところだ。この教会を世界的に有名にしたのは、この隣接する小さな建物の中にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるからだった。見事な透視図法による、中世の景色が横たわっていた。このルネッサンス期に発明された描法はまさにこの絵のためにできたものだ。と一人勝手に確信し、レオナルド・ダ・ヴィンチの才能に今更ながら大きなため息をつかずにはおれなかった。この絵は何をあらわしているのかな? 君たちの中にわたしを裏切った者がいる、とキリストが言った直後の弟子たちの硬直した反応を描いているんだよ。そうユダのこと。」
「次から次へ人は出会っていく。そして次から次に人は別れていく。裏切り、卒業、転校旅立ち、死別。その理由はいくらでも挙げられるが、人間は別れるために生まれてきたようなもの。その苦しみから逃げ出すためにみんな新しい出会いを必要とする。」
赤本(江国香織)より。
「ミラノから列車で三時間、フィレンツェに到着した。やや弱まった日差しは、そのために一層、夏のはじめのまぶしさを放ち、あたりをやわらかく包んでいた。
駅前広場に降り立ち、子供のころ、両親に連れられてきて以来の街の空気を吸い込んだフィレンツェ。街自体が博物館であるとさえいえる。小さくて美しい、けれどもそれ故に観光業に頼らざるを得ない運命を背負ってしまった街。ミラノとはまるで空気の違う街だ。
ーーー来ちゃったわ。
胸の内で、順正につぶやいた。東京にいるはずの順正。東京は深夜で眠っているだろうか。
あきれてるでしょうね、と、つけたして自分で苦笑した。今日ここに来ることを、いつ決めたのかと訊かれれば、十年前にと答えるほかにない。
ドゥオモは街の中心にあった。街の狭さに比して大きすぎる、その圧倒的な量感と時の流れの如実に刻まれた色大理石の壁。くすんだ、やわらかなピンクとみどりという色合いにもかかわらず、寡黙で男性的に思える。大きいのだ。しずかだ。
フィレンツェのドゥオモは愛し合う者たちのドゥオモよ。近くから見上げても丸屋根は見えない。夕方の空を鳩が羽音たかく横切っていく。
正面左側の受付を通ると、薄暗く、傾斜の急な階段が始まる。空気がひんやりと湿っていた。階段は、左右の壁が迫り、閉塞感があるぶんだけ、ところどころに作られた窓からの光と外気が、目や肺に、つきささるようにとびこんでくる。途中何度か平らな場所に出た。前へ前へと進むしかないその石の通路を、なにか自分の通り抜けてきた時間のように感じていた。
目の前にアーチ形の直線の階段が現れた。頂上だ、とわかった途端、すこしだけひるんだ。
一段ずつ、空に近づく。そして過去に。未来は、この過去の先にしか見つけられない。
小さく息を吸い、私は頂上にでた。光の中に、平和な、しずかなフィレンツェの街の夕方が、眼下一面に見下ろせた。はてしなく続く、赤茶色の屋根たち。壁に沿ってゆっくり歩く。登ってきた階段の丁度裏側に来たとき、私の目はある一点に吸い寄せられた。その人は片膝を立ててすわっていた。あれは順正の背中だ。間違えるはずがない。しばらくそこに立ったまま、私は順正を見ていた。「順正!」会いたくてたまらなかった、と、告白しているような苦しい声で、そのひとの名前を口にした。
ふりむいた順正の、記憶より削げた頬。息がとまるかと思った。フィレンツェの街を見下ろすドゥオモのてっぺんで、やわらかな、夕方の光のなかで。」
実はこの年齢になるまでフィレンツェなど北イタリアには一度も足を踏み入れたことがありませんでした。
この小説に触発されていつかはフィレンツェへだけでも…と思いながら日時はどんどん過ぎてきたのです。
或る日、新聞広告で安物のビジネスクラスパック旅行で有名なH交通社の安物「北イタリア旅行」の広告が掲載されて、まあ宿泊ホテルも悪くなさそうだし…念願のフィレンツェにも行けるし…この年齢になるとパック旅行の方が気楽かも…ということで、昨年11月、1週間の北イタリア旅行となりました。
(続く) |
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