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先にロータリークラブでキリスト教の「神の愛」と「臨人愛」が源流となった「ロータリーの職業奉仕哲学」を述べさせていただきました。
しかし、私はキリスト教の愛を触れるとき、どうしてもあの偉大な「マザー・テレサの献身的な愛」に触れざるを得ません。
知れば知るほどマザー・テレサの愛は深く、偉大過ぎるからです。
マザー・テレサは、本名 アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。1910年8月26日、オスマントルコ帝国領のコソボ州・エスキューブという町で生まれ、翌日にはキリスト教徒としての洗礼を受けています。
アグネスは聡明な幼女だったらしく、12歳の時には、将来インドで修道女として働きたい、という望みをもっていたといわれます。
カルカッタ、ダブリンで基礎教育を受け、1931年ダージリンに赴きました。
初誓願のときに選んだ修道名がテレサでした。
1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサと呼ばれることになりました。
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で教鞭をとっていました。そして1944年には校長に任命されています。
彼女自身の言葉によると1946年のある日のこと、汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたといいます。
1948年、ようやく修道院外居住の特別許可を得て、カルカッタのスラム街の中に入っていき、献身的な奉仕活動をすることになります。
彼女の奉仕活動は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人」のために働くことでした。
1950年から修道会設立の許可を得て「神の愛の宣教者会」を設立し、修道会のリーダーとして「マザー・テレサ」と呼ばれるようになりました。
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設しました。以降ホスピスや児童養護施設を次々開設していきました。
テレサの献身的な奉仕活動はカトリック教会全体に刺激・感銘を与え、全世界に知られるようになりました。
「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を超え、123か所 610か所で活動を行うようになっていました。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン氏病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などです。
1997年9月5日彼女は87歳の生涯を終えたのですが、ノーベル平和賞をはじめ数々の賞を得ていたが、生涯いつも普段と同じ白い木綿のサリーと皮製のサンダルという粗末な身なりで通しました。
勿論、宗派を問わずすべての貧しい人々のために奉仕したテレサの葬儀はインド政府によって国葬として執り行われました。
神渡良平氏は次のように述べています。
「地球上に人類が誕生して6億5千万年が経つ。その間、どれだけ多くの人が地上に棲息したか知らないが、せいぜい8・90年しか生きない人間にとって、同じ時代に生まれ合わせるということはほとんど奇跡といっても過言ではない。
その奇跡を私達は得た。私達の同時代人の中で、その人が生涯かけて貫き通したことを、神が最も語りたいという人は、マザー・テレサ以外にないと思っていた。」
そして神渡氏はマザー・テレサを実際にこの目で確かめたいと、カルカッタに飛びました。
「マザー・テレサの本は読んでいたし、ビデオも見ていたから、彼女の心していることは自覚している積りでいた。しかし、現実のケア活動は壮絶なものであった。そして身寄りのないただ死を待つだけのハンセン氏病患者や精神障碍者患者が欲しているのは一枚のパンの飢餓より、愛されたい、無視されたくない、関心を持ってほしいという愛情の飢餓で、淋しさに震えていることがわかった。
マザー・テレサは毎朝・晩、マザーハウスでのミサで、祭壇のキリスト像の前にひざまずき、人間を超えた「大いなる存在」にすべてを託し、
『神の愛を届ける役目として私を用いてください。』と祈りを捧げていた。」
10年以上に亘りマザー・テレサの貧民救済活動を撮りつづけた写真家・沖守弘氏によるマザー・テレサの活動報告は:
「貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際にキリストのお身体にふれているのです。」
「わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、キリストがこの世に飢えて、裸の、そして家なしの人に変身しておられるのです。」
「祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます。」
「神さま、何卒私を、世界中に散らばっている兄弟姉妹、貧しき生き、誰にも看取られることなく死んでゆく人々に奉仕するにふさわしい者にして下さい、私たちの手を使って、平和と幸福を彼らにもたらして下さい。」
「祈りは願いごとではありません。祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、、私たちの心の深みに語りかけられる神の御声を聴くことなのです。」
私などは自分の現在の生活を鑑みれば、奉仕などの言葉を使うことさえ遠慮しなければならない身であります。
私は最近左ポケットに1000円札(海外では5ドルや100バーツ)を忍ばせることにしています。
どの町にも道を歩いていると、気の毒な人、可哀そうと思える人がたくさん居るからです。
或る日の朝、病院の玄関前にこれが自分の全財産と思しき汚れた大きな風呂敷包みを横に、寒さにに震えているおばあさんを見かけました。「おばあちゃん! 大丈夫か? 朝ごはん食べたの?」「・・・」「これで朝ごはんでも食べてきて!」そっと1000円札を渡しました。何も答えず受け取ってくれました。
バンコクで交通渋滞があまりにも激しいので、私たち一行はホテルまで歩きだしました。
途中雑踏の道端で母親が小さい子供二人を連れて売れそうもない小菊のような切り花を売っていました。もう午後7時半を過ぎています。おなかはペコペコのはず。私はすばやく100バーツを取り出し母親に渡し、足早に走り去りました。
今年の冬も寒かったですが、私は沖縄やバンコクへ避寒旅行させていただきました。風邪も引かずに無事に過ごせたお礼に! と、「国境なき医師団」と「ユニセフ」そしてポリオ撲滅を目指す「ロータリー財団」にささやかながら送金させていただきました。
これからも「一燈照隅・万燈照遍」を人生の合言葉に、残りの人生を歩んで行きたいと思います。 |
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