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仏教では奉仕のことを布施(dana 壇那)といい、大乗仏教徒として是非守らなければならない要件のひとつとしています。
そして、その布施は二種類あるいは三種類に分けられています。
二種というの「法施」と「財施」で、「法施」というのは仏教の智慧でもって奉仕することであり、正しい真理を説いて世間が良くなるようにすることです。
「財施」というのは自分の持っているものを施すことで、それによって少しでも世の中を明るくしようとすることです。
了翁和尚が東海道の宿場に無料の施薬舎を建てたり、行基が悲田院、施薬院などを建てた行為などもその一例です。
仏教の奉仕の精神は報酬を求めない心にあります。
達磨大師が梁の武帝に会われた時、武帝が「私はたくさんの寺を建て、多くの僧に供養してきたがどんな功徳があるか」とたずねられると、達磨は「無功徳」と答えられています。
功徳を期待する善行は、それが如何にすぐれた行為であっても奉仕にならない。というのが仏教の奉仕の精神であります。
何か良い報いがありはしないかと思った途端、それは奉仕でなくなるのです。
重ねて言いますと、仏教には「布施」という言葉がありますが、これが「奉仕」に一番近い言葉です。
仏教では「布施」とは「仏教の信者が僧侶に金銭や品物を差し上げること」となっています。むかし、インドでは信者たちがお坊さんに布を施したのです。お坊さんは食べ物以外はほとんど何も必要とされない。何が必要かと言えば、衣類だったのです。
仏教における本当の意味での布施とは、次の三つの条件が満たされてなければなりません。
これを「三輪清浄の布施(慈悲)」と言います。
その一つは、施す人の心が清らかでなければならないということです。「俺があの人にこのことをしてやったのだ」という思いがいささかでもあるならばそれは清らかな慈悲心から出たものではないのであります。
二つは、それを受け取る人の心も清らかでなければならない。つまり、布施を受け取る方もこだわりなく、おおらかな気持ちでいただいて、はじめて布施になります。
そして、第三は、施す物も清らかであること。施す人、施しを受ける人、その間に介在する物も清らかでなければならないとされます。
犯罪を犯したり、悪徳商法てせしめたお金で施してはダメということです。
インド,ミャンマーやタイでお坊さんに布施させていただいても、お坊さんはいっさいお礼は言いません。施す信者の方がお坊さんに合掌をして、そして施しをさせていただくのです。 |
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