平成24年11月1日  仏教での「奉仕」「慈悲」を考える(1)

  奉仕とはもともと神に仕える心で人に接するところから始まります。
それを仏教では「侍える(つかえる)」とも「供養」とも言っています。
この「供養」という言葉は「供給(くきゅう)」と「資養」という仏教語が二字に約められた言葉です。
「供給(くきゅう)」はお給仕のこと。「資養」とは助けるという意味です。
 



  仏教では奉仕のことを布施(dana 壇那)といい、大乗仏教徒として是非守らなければならない要件のひとつとしています。
そして、その布施は二種類あるいは三種類に分けられています。

二種というの「法施」と「財施」で、「法施」というのは仏教の智慧でもって奉仕することであり、正しい真理を説いて世間が良くなるようにすることです。
「財施」というのは自分の持っているものを施すことで、それによって少しでも世の中を明るくしようとすることです。
了翁和尚が東海道の宿場に無料の施薬舎を建てたり、行基が悲田院、施薬院などを建てた行為などもその一例です。
仏教の奉仕の精神は報酬を求めない心にあります。
達磨大師が梁の武帝に会われた時、武帝が「私はたくさんの寺を建て、多くの僧に供養してきたがどんな功徳があるか」とたずねられると、達磨は「無功徳」と答えられています。
功徳を期待する善行は、それが如何にすぐれた行為であっても奉仕にならない。というのが仏教の奉仕の精神であります。
何か良い報いがありはしないかと思った途端、それは奉仕でなくなるのです。

重ねて言いますと、仏教には「布施」という言葉がありますが、これが「奉仕」に一番近い言葉です。
仏教では「布施」とは「仏教の信者が僧侶に金銭や品物を差し上げること」となっています。むかし、インドでは信者たちがお坊さんに布を施したのです。お坊さんは食べ物以外はほとんど何も必要とされない。何が必要かと言えば、衣類だったのです。

仏教における本当の意味での布施とは、次の三つの条件が満たされてなければなりません。
これを「三輪清浄の布施(慈悲)」と言います。

その一つは、施す人の心が清らかでなければならないということです。「俺があの人にこのことをしてやったのだ」という思いがいささかでもあるならばそれは清らかな慈悲心から出たものではないのであります。
二つは、それを受け取る人の心も清らかでなければならない。つまり、布施を受け取る方もこだわりなく、おおらかな気持ちでいただいて、はじめて布施になります。
そして、第三は、施す物も清らかであること。施す人、施しを受ける人、その間に介在する物も清らかでなければならないとされます。
犯罪を犯したり、悪徳商法てせしめたお金で施してはダメということです。
インド,ミャンマーやタイでお坊さんに布施させていただいても、お坊さんはいっさいお礼は言いません。施す信者の方がお坊さんに合掌をして、そして施しをさせていただくのです。
 



  仏教には「慈悲」という言葉があります。
慈悲の「慈」とは友情、この友情は特定の友のものではありません。私達をとりまく自然のすべて、鳥や魚にいたるまでみんな仲間であると実感するのが「慈」です。
「悲」はうめき、痛み。友の痛みやうめき苦しみを自分の苦しみとして受け取る心であります。
「愛」に似ていますが、裏切られると憎しみに変わるような愛ではなく、裏切られれば裏切られるほど相手をいとおしまずにはいられない大きくて深い愛であります。
仏教では「不請の慈悲」と言い、反対給付を求めない慈悲、相手のためだけの慈悲が求められています。
 



  また、仏教では「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)」を求めています。
一方においてさとりを求め、他方ではひとびとの救いを図ることです。
 



  一方、伝教大師が弟子たちに与えた教訓として「一燈照隅」「万燈遍照」ということを教えています。
自分の存在がいかに小さくささやかであっても、一燈となって一隅を照らしてゆくならば、百、千、万と集まれば、あまねく社会を照らし、国を照らすことになる、ということを教えています。
自分の身辺の誰か一人によくしてあげれば、その人はまた誰かに必ずよくしてあげる。行為が行為を生んで無限に続く。「一人では何もできない。しかし一人がはじめなければ何もできない。」この絶対の一人になろうと自分を奮い立たせることだと教えています。
 




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