|
木材業界の最大手企業のひとつ・津田産業株式会社のご一族であり、関連会社 津田木材工業株式会社の社長を長らく務められていた、津田龍雄さん当年84歳、現在は東京渋谷にご自宅、そして軽井沢に別荘をと奥様と悠々自適の生活を楽しんでおられます。毎年毎年「今年こそ軽井沢へゴルフにでも来て下さい。」とお誘いの年賀状をいただきながら実現していませんでした。
お互いにだんだん年取ってゆくし、「このままでは実現せずに終わってしまう!」と今年は意を決して、お言葉に甘えてお邪魔することにしました。
実は、恥ずかしながら私はこの年齢になるまで、かの有名な軽井沢へは行ったことがなかったのです。
日程は梅雨入り前の新緑の季節、3泊4日をと組んでいたのですが、前後にどうしても出席しなければならない用件に挟まれて結局は2泊3日の慌しいものとなってしまいました。
大阪からは新幹線で一旦東京駅まで出て、2〜3番隣のホームの長野新幹線に乗り換えて1時間余りで軽井沢駅に到着します。幸い私達夫婦はJRジパングクラブの30%シニア割引を利用させていただきました。
当日午前9時半ごろの新大阪発で午後1時半には軽井沢駅に到着しました。
軽井沢駅改札口に黄色のスプリングセーターにホワイトスラックスの相変わらずおしゃれな津田さまのお出迎えを受け、早速宿泊先の「ホテル鹿島の森」にチェックイン。
このホテルは中曽根さんが当時首相の時、週末には常宿としていたホテルです。勿論中曽根さんはりっぱな別荘を軽井沢に持っていらっしゃるのですが、警備の都合上この「ホテル鹿島の森」を選ばれたそうです。想像通りうっそうとした森の中に佇む2階建ての多少古い静かなホテルでした。
チェックイン後早速、津田さまに軽井沢を案内していただきました。
天皇陛下と美智子妃殿下とのラヴロマンスの生まれたテニスコート、美智子さまが独身時代常宿されていたという正田家の案外質素な別荘、鳩山元首相兄弟の各々豪華な別荘、麻生家や細川家の別荘等など・・・東京の著名人、財界人、政治家の別荘が、苔むすうっそうとした落葉松林(からまつ)のなか、一区画400坪位単位でずらりとならんでいます。勿論5区画10区画の別荘もあります。
このような別荘が一万戸以上点在しているそうです。
もともと軽井沢は関東の出入り口の宿場として栄えていたようです。1886年、アレキサンダー・クロフト・ショー氏というイギリスの宣教師が軽井沢を訪れ、1888年には軽井沢で最初の別荘を建てのが別荘地軽井沢の始まりだそうです。
さて、次に案内されたのが国の重要文化財になっている旧三笠ホテル。実業家の山本直良がアメリカで設計を学んだ岡田時太郎に設計させ、当時としては珍しくすべて日本人によって工事完成させ、1906年に開業したホテルとのことです。当時日本を代表するホテルとして多くの政財界人が利用したとのことです。各部屋には薪ストーヴ、水洗トイレ、ベッドなど完備されていましたが、これが昔の最高級のホテルか?! と思うほどお粗末なものでした。
そしてソニーの大賀さんが私財を投じて建てたという本格的なコンサートホール「大賀ホール」など・・・。
車で1時間ほど軽井沢を廻ったので、美味しいコーヒーでもと案内されたのが、「一房の葡萄」という喫茶店。明治の文人・「有島武郎終焉の家」(この地へ移築されている)と看板がありました。浅間山を眺望できる川沿いに、洒落た杉皮葺きの茶屋で、ここで静かにコーヒーをいただきました。
そして、最後は津田様の別荘を見学させていただきました。ここではじめて津田様の奥様にご挨拶させていただきました。
津田様の別荘は、かの有名な万平ホテルから歩いて2〜3分の好位置に立地しています。広大な800坪の敷地に2棟に分けられて建築されていました。
どちらの建物も大きな薪ストーヴを中心にした広い広い居間、そして水周り設備は最新のものを設置されていました。それに程よく並べられている調度品も、相当高価なものとお見受けされ、とてもセンスが良く、別荘建物と調和されていて、津田様ご夫妻の文化度の高さを伺い知るに充分でした。
津田様の奥様も、ご主人同様、思いやりに溢れたお人柄で、豊富な話題で退屈させることなく、私達を歓待していただきました。
夕食は津田様ご夫妻に有名な万平ホテルでフランス料理をご馳走になりました。大きなダイニングが満員だったのは驚きでした。さすがは有名な万平ホテル、フランス料理は一級品、ワインとともにおいしくいただきました。
さて翌日、私たち夫婦は津田さまご夫妻に名門中の名門・軽井沢ゴルフ倶楽部に案内していただきました。この軽井沢ゴルフ倶楽部はもともと旧軽井沢ゴルフ倶楽部が12ホールしかないということで、財界人が本格的なコースをと、昭和の初めに完成した名コースです。会員も300人程度で、当日も4〜5組の来場者でした。
あの有名な白洲次郎が理事長として、彼がこよなく愛していた倶楽部です。
軽井沢ゴルフ倶楽部には「ティーグランドでは素振り禁止」の立て札があります。そしてまず「プレイファースト」(プレーを早く!)が求められています。
入場者の服装なども厳格です。
軽井沢ゴルフ倶楽部のクラブハウス内外の清潔さ、上品さは抜きん出ています。
受付け、ロッカー、食堂の従業員の方の言葉つかいや身のこなしも誠に上品、おだやかです。別荘のお嬢様やメンバーの子弟を採用しているとも聞きましたが・・・・???
コースは6726ヤードと長さもたっぷりあり、誠に広々と雄大であり、且つ戦略性に富み、グリーン、フェアウェイとも緑の絨毯のように整備されており、さすが日本一の名コースと感慨に耽りながら・・・、
津田さまのご主人と私たち二人で、時々小雨降る天候のなか、実に楽しくプレーさせていただきました。
また挑戦したくなる、そして上品なおしゃれなゴルフコースでした。
この日の夕食は津田さんご夫妻行きつけの「東間」というお蕎麦屋さんへ案内していただきました。
さすが、みすずかる信濃の国、口の肥えた軽井沢の住人相手のお蕎麦屋さん。
「そば焼酎のそば湯割り」に、焼味噌、出し巻き、牛刺し、さつま揚げ、野菜てんぷら・・・等を次々注文。最後はざる蕎麦。私は鴨汁のつけそば。
若い女将さんにお見送りを受けながら、私たち思わず「あー、おいしかった!」
翌日の朝食は宿泊の「ホテル鹿島の森」。レストランの窓から見る森の若葉は朝日に輝いて白く光り、まるでモネの一幅の絵画を観ているかのような錯覚のなか、朝食をいただきました。
朝食後、ホテルからほんの数十歩しか離れていない「旧・軽井沢ゴルフ倶楽部」へ。
歴史のあるゴルフ倶楽部で地元やメンバー仲間では旧コースと呼ばれているようです。
ここはアウト・インそれぞれ6ホールしかなく、しかもアップダウンがかなり険しく、いつも乗用カートに利用している私達関西人には途中でギヴアップしたくなるホールが続きます。
84歳になられる津田さん、疲れも見せず華麗なフォームでショットされます。
まさに良き時代のオールド・ゴルファー!。
「津田さん、ご無理なさらないで下さいね! 私達はいつ中止してもよろしいから!」
津田さんは「私は一向に平気ですよ! 最後までまわりましょう!」「実は横尾さんがお見えになるということで、前日にも友人を誘い練習ラウンドしたのですよ! 私はゴルフで歩くことが健康維持の最高の秘訣と信じて今まで生きてきましたから!」
84歳の大先輩の言に従って、最終12ホールまで廻らせていただきました。最終ホールにはいつの間にか、津田さまの奥様が観戦、そのなかで津田さん素晴らしいアプローチを披露されナイスボギー。
クラブハウスに戻り、4人でランチを美味しくいただきました。
軽井沢ゴルフ倶楽部も旧軽井沢ゴルフ倶楽部も美味しいランチメニューがすべて1260円でした。
ということで、楽しい思い出をいっぱい抱きながら帰路についたのでした。
帰路の新幹線の車中で軽井沢の案内本を改めて読んでいると、「しまった! もっと軽井沢のことを勉強してから、寄せていただくべきだった!」と後悔しきりでした。
あのおいしいコーヒーをいただいた喫茶店「一房の葡萄」は明治の文豪・有島武郎が人妻の恋人・波多野秋子と心中した別荘「浄月庵」だったのです。
7年前に妻をなくした有島武郎(1878 - 1923)が雑誌「婦人公論」の美貌の記者・波多野秋子に足繁く通われ、原稿依頼を受けます。そしてやがて二人は親密な関係になっていきます。二人の関係は波多野秋子の夫に知れることになり、夫から金銭による取引を求められます。有島は自らの「純粋で潔癖な愛」を貫くため、彼との死を望む波多野との心中を決意します。そして軽井沢の自らの別荘「浄月庵」の居間で、波多野と抱き合いながら首を吊って命果てたと言います。
芥川龍之介もまた、有島の死の翌年、軽井沢の地で密かなる相思相愛の相手・片山広子とめぐり合っています。片山広子への思慕の念は彼の「越し人」などの作品という形で昇華させていったといいます。そして芥川も有島の死が引き金とするかのように、自死をもって自らの愛の清算をしたと言います。
この軽井沢は、他にも多くの小説家、歌人、文化人たちがここに集い、数々の逸話、恋物語を残していったロマンチックな地であったのです。
津田様ご夫妻には大変お世話になりました。茲に厚くお礼申し上げる次第です。
|
|