平成24年5月15日  同行二人(どうぎょうににん)

私がこの年齢になるまで、人生すべての面で平凡ではありますが、ここまで何とかたどり着いてこれたのはこの仏教の「同行二人」という言葉のおかげです。

若いころ、松原泰道著「般若心経入門」で初めてこの言葉を知り得ました。
四国八十八ヶ所巡礼のお遍路さんが頭にかぶっている笠に書いている言葉「同行二人」です。
「私は弘法大師さんといつも一緒です。弘法大師さんは観音さまでありお釈迦さまでもあります。そして・・・つきつめればもう一人の自分ででもあるのです。」という生き方です。


 よもすがら ほとけの道を たづねれば わが心にぞ たづねいりぬる


人間には、自分の心(感情や望みや思考)や自分の行動を客観的に観る、分析する能力があります。
また、人間には自分の心や行動を理性的に考え直す能力があります。この感情や行動は正しいかどうかを判断し、良い方に正しい方に持っていくにはどうしたら良いか考える能力があります。
この方法・手段が自分の心の中に「もう一人の自分」を目覚めさせることです。
自分を育てるとは「もう一人の(理性的な)自分」を育てるということでもあります。
お遍路さんは「私はいつも弘法大師さま、観音さま、仏さまと一緒です。」と四国八十八箇所を巡礼されているのです。
「もうひとりの自分」が弘法大師さまであり、仏さまであり、観音さまであることを体感しながら人生を送りたいものです。


西洋哲学は真理を探求し、正しい生き方を追及する学問ですが、西洋哲学もつきつめると「自分とは何か?」「私とは誰か?」「自分が自分だと思っている自分の正体は何なのだろう?」という自分探しの学問でもあります。

「自分とは何か?」を考えようとするとき、自分を反省しようとするとき、<そう考えている自分> と <そのように考えられた自分> とは明らかに違うではないか。<考えられた自分> は最早 <考えている自分> ではない。そこで、さらに <自分を考えている自分> をつかまえようとすると、つかまえたとたん、その自分もまた <考えられた自分> に過ぎなくなってしまいます。だから、考えている自分は永遠に認識することができない。

その永遠に認識できない自分こそが本当の「私」であるとドイツの哲学者リッケルトは言ったそうですよ。





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