平成24年3月16日  経営を考える(3)
             松下幸之助 成功の発想と危機克服の心得


不況またよし

幸之助が亡くなって23年になりますが、生前、危機に際してどのような考え方で、どう乗り越えたらいいのか、ということをよく話しておりました。それを私なりに、三つのポイントに整理してみました。

一つには、「君ら、日ごろから歴史をしっかり勉強しとかなあかんで」とよく言われました。「人間には、歴史の中であらゆる危機に遭遇して、それを乗り越えた知恵がたくさんある。それを今にどう生かすかという観点で、歴史をしっかり勉強しなさいよ」ということです。

二つ目には、「危機に遭遇したときは、もういっぺん原点に立ち返ることやなあ」と、よく話してくれました。もともと事業を始めたときは、お客さんも、商品も、資金も、信用も何もなかったわけです。そんな中から、努力を積み重ねて今日があります。ですから、全てを失ったとしても、何もなかった時の原点を思い起こせばもう一度、初めからやりなおそうか、という勇気もわいてくる、ということです。

三つ目は、「起こってしまった現実からわれわれは、逃げることができへんのや。あるがままの現実をそのまま素直にまず受け入れんと、しょうがないわな」ということです。受け入れて、それをどう乗り越えるかという知恵を、いかに発揮するか、ということです。「人間の知恵だけは無限やで。知恵は出そうと思ったらいくらでも出る。解決の道はいくらでもある」と言っていました。

皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、幸之助は生前、「不況またよし」とよく言っていました。「不況はチャンスやで、不況やからこそ、新しいものが生まれるやないか。不況やからこそ、人も育つ」と。

幸之助は、1989(平成元)年に94歳で亡くなるまで何を求め続けたのか。それは、「繁栄」ということです。しかも、この繁栄はモノの繁栄だけでなく、「物心一如」ということをよく言っておりました。「モノと心、この両方が実現できないと真の繁栄もないし、また、繁栄していかないと、本当の幸せも平和もない」というのが強い信念でした。

これを実現するため、松下電器の事業だけではなくて、1946(昭和21)年、PHP(Peace and Happiness through Prosperity 繁栄によって平和と幸福を)運動をスタートさせました。そして1979(昭和54)年、84歳の時に松下政経塾をつくりました。「何としても21世紀の日本のリーダーをつくりたい。そうせんと21世紀、日本は衰退する」という強い危機感で、松下政経塾をつくったのです。

幸之助は「本来、不況なんてない」ということを言っておりまた。「天地自然の理法に則り、素直な心で正しい考え方、やり方でやっていけば、どんどん繁栄していくのが原理原則。この社会の、宇宙の、原理原則は、限りない生成発展や」ということが考え方の基本にありました。「不景気でうまくいかないことはあるが、人間がつくった不景気だから、人間の知恵でいくらでもこれは解決することができる」という考え方をもっているわけです。

危機の時、幸之助はこういうふうに積極的でしたが、順調な時は、全く逆の顔をしておりました。私がPHP研究所に入社したころ、『PHP』誌は、100万分以上の発行部数で、日本一でしたが、経営的には赤字でした。昭和50年代に入って出版事業がなんとか軌道に乗ってきて売り上げも伸び、利益もきっちりと確保できるようになりました。そこで、所長である松下幸之助に報告しなければいけないと思い、同僚と報告に行ったことがあります。

数字を報告し、「おかげさまで利益も順調に出るようになりました。自立できるようになりました」と話をしますと、最初はにこやかな笑顔で、うなずきながら聞いていましたが、途中からだんだん顔つきが変わってきて、ちょっと険しい表情になったのです。

その時、「君たち、『治に居て乱を忘れず(編集部注 平和な世にあっても武芸や軍備を忘れず、常に乱世となったときの準備を怠らないの意)』という言葉があるが、それ知っとるのか」と言われました。これは明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜いた人でないと、わからないことなのかもしれません。ここが経営者のバランス感覚なのでしょう。

われわれは順調に行く中で、つい気も緩んでしまって、ともすれば放漫経営というのになりがちですが、幸之助は逆なのです。むしろそういう時は、世の中の変化と、その中での人間の心の変化を見抜きながらビシッと気持ちを引き締める。「こいつら、ちょっと気が揺るんどるな」と多分その時、直感的に思ったのだと思います。

1969(昭和44)年、私は松下電器に入社しました。半年間の実習のあと、思いもよらず、PHP研究所に配属されました。当時幸之助は、松下電器の会長でPHP研究所の所長でした。配属されて一週間たった時、8人の新人社員が集められ、幸之助と2時間の懇談会が開催されました。

「君らには、これからここで仕事をしてもらうのやけれども、感謝ということをしっかり考えながらやってほしい」と、にこやかな笑顔でわれわれの顔を見回しながら話かけてくれました。正直、私はその時まだ学生気分が抜けていませんでしたから、感謝と仕事と何の関係があるのかな、と思いながら、いい加減に受け止めていた気がします。

しかしその後、幸之助の言動を見ていて、「感謝」という言葉の真意がだんだんわかってきました。もっと言えば、幸之助という人はどういう人であるかを一言で表すとすれば、「あらゆる人、あらゆるものに、感謝をし続けながら、人生を生きた、商売をしてきた人」ということが、だんだんわかってきました。



運命を素直に受け入れる

幸之助は、松下哲学といわれるものを、77歳の時に確立します。「何で成功したのですか」と問われると、「わしも本当のところは、よくわからんのや。あえて言えば、そうなる運命になっとっただけやないかと思いますわ」と、禅門答のような答え方をしておりました。もう一つ、答えがありました。「わし、なんにもなかったから、うまくいったのかもしれんな」と。

それ以外にも、幸之助の当時の発言を聞いておりますと、それまでの私の常識と全部逆のことを言っています。「うまくいったときは運が良かった、と思わんとあかんで。うまくいかんときは、自分のやり方にどこか問題があると思わんとあかんで」と。しかし、そこに幸之助の、成功の発想の原点があったのかな、ということがずいぶん後になって少しずつわかってきました。幸之助はこの運、というものに対して、独特の考え方を持っておりました。

1979(昭和54)年、84歳の時に私財70億円を投じて、松下政経塾を設立しました。第一期生は1980(昭和55)年。一期生と二期生は、幸之助が三次面接をやり、入塾生を決めていました。

面接の時に何を見ていたかを、ある時PHP研究所で話してくれました。「わしな、愛嬌を見ておったんや。愛嬌がない人間は政治家になれへん、みんなに好かれんな。特に女の人は投票してくれへん。やっぱり愛嬌ないとあかん」。

ニつ目。「わし、運を見とったのや」と。「君、自分の運をどう考えているのや。強いんか、弱いんか」と。これが幸之助の質問です。世の中を良くしたい、日本をもっと良くしたい、素晴らしい国にしたいと強く願う人が、「わし運がないわ」では困りますよね。日本をもっともっと良くしたい、もっとみんなに幸せになってほしい、こういう思いが実現するためには、自分は運が強いという、積極的な、前向きな考え方をもっていないと自分を否定するような人間は他人をも否定するかもしれません。自分を肯定し、他人も肯定するという、プラス発想の考え方かどうかを見ていたのだろうと思います。

幸之助が、「一体人間とは何か?」ということについて結論を出したのが、1972(昭和47)年です。77歳の時に『人間を考える』という本を発刊して、大変反響を呼びました。「われわれは人間に生まれたいと思って生まれたわけではないが、万物の霊長たる人間で生まれたということは、これだけで奇跡やと思う。しかも、人間としては同じでも一人ひとりは全部違う。背格好、顔つき、能力、個性、いわゆる持ち味はみな違う、人間というのは」と言っておりました。

「人間がそれぞれ、異なる持ち味を持って生まれたということは、運命やと思う。この運命は90パーセント与えられたもの、決められたものなんや。自分で選んだものやない。これが与えられたものであるということを、われわれは素直に受け入れんといかん。受け入れて、自分に与えられた持ち味をどう前向きに生かすか、120パーセント生かしきるかどうか、そこに人間としての真の成功を得ることができるかどうかの分かれ道がある。ここが大事なポイントやと思う」と、雑談や研究会で話してくれました。

幸之助には、何にもありませんでした。学歴がありませんでした。小学校4年中退。健康がありませんでした。19歳の時に血を吐きます。肺結核。94歳で亡くなるまで、ずっと体が弱かった。8人きょうだいの三男の末っ子でしたが、次々と兄や姉が、親が亡くなりました。松下電気器具製作所を創業するのは23歳の時ですが、それから3年目、事業の目鼻が立ったころだと思います。一番上の姉さん、イワさんが、病気で亡くなりました。これで、幸之助の親族は全員死んでしまいました。その幸之助自身も、結核性の体質で無理のできない体でした。

幸之助は、その悲惨とも言える運命を素直に受け入れざるを得なかったのでしょう。運命から逃げることはできませんから素直に受け入れて、それを生かしてきた結果が、幸之助の経営になっていくのです。

非常に体が弱かった。どうしたか。本人の言葉によれば「わしは体が弱いからしょうがないかったのや。しょうがないから、部下に仕事を任せるやり方を考えついたんや」。1933(昭和8)年につくった「事業部制」の、これが原点です。事業部制の本質は何かというと自主責任経営という考え方です。

しかし、2000年に松下電器が大赤字を出して大変な状況になったときに、今の会長の中村邦夫氏が「破壊と創造」を訴え、事業部制を解体し、事業再編を実施、今はドメイン制になっています。事業部制というのは、あくまでも組織づくりですから、時代の変化とともに変わって当たり前です。

二つ目。「衆知経営」。簡単に言えば、わからんことは人に聞きながらやっていく、ということです。幸之助は教えてくれへんか、とわれわれ新入社員にもよく聞きました。「わし、学校行ってへんから、何にも勉強してへん。何にも知らへん。知識がない。全部、人に教えてもらいながら、ずっとやってきただけなんや」

三つ目。「ダム式経営」。ダムの一番基本的な役割は、水をためておいて渇水時に備えることです。経営にもこのダムがいる。人、モノ、カネ、技術、サービス。ダム、すなわち、ゆとりがなければ、不況がきた時にひとたまりもない。



人間と人間との付き合い

幸之助は危機の度に新しいものを生みだし、松下電器の経営をさらに飛躍する転機にしていきました。1934(昭和9)年の9月の室戸台風で、工場が壊滅的打撃を受けたことがありました。その時のことについては、戦後、井植歳男氏と一緒に独立して三洋電機を創業し、同社の副社長となった後藤清一郎氏の話からご紹介します。この人は当時、松下電器の工場長を勤めていました。





  その時、松下もご多分にもれず、乾電池の工場と電工の工場が倒壊しました。その時、(松下幸之助が)工場へ来られて、こけたら立たないかん。建設が始まるのやから、そうしいや」と言われました。

大阪は全面的にやられました。ということは、松下のお得意先も、相当被害に遭ったわけです。晩にみんなが呼ばれまして、「工場の建設もさることながら、お得意先もみな被害を受けている。これから、お得意先に慰問に行け」と。

あの時、思いました。自分の工場の大半が倒壊しているのに、お得意さまのことを真剣に考えておられると。(水に浸かっているので)屋根に避難しているお店があります。金額は忘れましたが現金と、せっけん、パン、懐中電灯、といった日用品を渡すと、抱きつかれて泣かれましたな。

売ってもらうお得意先との、人間として温かい心のつながりが商売の本当ではなかろうか、と思いました。商いの心とか、難しい経営学がありますが、その根底は、人と人とのつながりという温かい、血の通った、いわゆる人間と人間との付き合いなのだということを教えられました。
 





  これは戦前の話ですが、今回の東日本大震災の際の日本人の、人々の動きを見ていますと、人間の本質、とりわけ日本人の本質は、時代が変わっても変わっていないですね。

昔から日本人というのは、危機になったら強いし、みんなで助け合うという気持ちが今でも脈々と受け継がれているなあ、と思います。震災の翌日、パナソニックの営業の責任者は被災地の販売店を回っておりました。危機の時の対応が次の時代に向けて企業風土や、伝統として連綿と繋がっていくのだなあ、と思った次第です。

1964(昭和39)年、東京オリンピックの年。その前は、日本の高度成長が本格的に始まって、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが、三種の神器と呼ばれていた時代です。それらが売れに売れて、経済をぐんぐんひっぱっていました。しかし、普及が一巡し、それがオリンピックを契機に売れなくなりました。松下電器の取引先もほとんどが赤字、という状態になりました。

幸之助は危機を察知して、熱海のホテルに販売代理店の人々を集め三日間、会議を行って改革を進めます。この時、幸之助は時間をかけて話を聞き、新しい制度について話をし、根気強く説得をしました。具体的な改革の中身は時代が違いますから、あまり参考にならないと思いますが、リーダーとしての動き方は、ご参考になるのではないかと思います。

まずは危機の察知力。当時、松下電器は、まだ利益が出ていましたから、当時申の幹部の人たちは、そこまでの危機感はなかったらしいのですが、幸之助は、販売代理店との雑談の中で尋常ではない危機をつかみました。これは、常に危機意識があったからだと思います。「治に居て乱を忘れず」です。

そこで即刻、会議を招集して、熱海で徹底的に議論をするのですが、当初はお互いがお互いの立場を避難し、応酬で終わります。

それにもかかわらず、なぜ最後に販売代理店の気持ちが一つになったかというと、情です。最初は理屈ばっかり言っていました。永遠に平行線です。最後、気持ちが一つになったのは、創業期の思い出を話すうちに、幸之助が涙で訴えた情の世界。理と情の両方がないと、気持ちがなかなか一つにならないのでしょうね。

小売店に関しては、大阪はしがらみも多く、一番難しい地区でしたが、そこを幸之助が自ら会合に出席して説得をしました。ほかは他の役員が手分けしていました。一番難しいところをトップリーダーがやり、ここがうまくいったら、ほかはもう右にならえ、という計算もあったのかもしれません。

中途半端な納得と理解では、改革はうまくいきません。全員一致が大切です。幸之助の言葉に、「とどめを刺す」というのがあります。「99パーセントまでうまくいっても、残る1パーセントでひっくり返ることがある」と最後の一人に至るまで、全員が気持ちを一つにしていくよう、説得を試みました。最後に、不景気に際しての幸之助の言葉で締めくくります。
 





  「不景気になって、初めて商売を知る。不景気になって初めて成すべきことを知る。不景気になったことは、松下電器のために非常に幸せやと、思てんのや。不景気に、われわれは成長していくものや。不景気がなかったら成長しない。そういう意味で、不景気になったことは、会社としては困るけれども、見方によれば、こういう時こそ、ものを言えば頭に入る。こういう時こそ、なすべきことに気づくことになって、
非常に力が出る。だから社長なり、会長なりが社員を養成しよう、社員の質を上げようという場合には、不景気を利用しないといかん。不景気を活用しないといかん。そうしたら、社員がみな、上がってくる。松下電器の過去の歴史は不景気に伸びてきた。不景気が来るたびに、次の時代には一番先頭に立っていると」
 





  ロータリークラブ記念講演録より
講師  松下資料館顧問 川越 森雄 氏
 



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