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地球の温暖化が進んでいるというのに、今年の冬は殊のほか寒い。新潟県など日本海側では大量の豪雪に悩まされているといいます。学者の説明では北極圏寒気団気流の変化からこのような現象になっているとのことです。
今日2月23日は母の祥月命日。昨夜からしきりに降っていた冷たい雨も、午後には降り止み、早速家族で箕面のお墓へお参りし、帰宅後お経をあげ今は亡き父母を偲びました。
いやあ、思い返してみると母には色々世話になったなあ! との感謝の思いでいっぱいです。
母の人生を語るとすれば、私は三楽章から構成される交響曲に譬えたいと思います。
第一楽章は奈良県の静かでのどかな山村の旧家で生まれ、精華小学校・天理女学校(現在の天理高校・天理大学)と進んで22歳で父と結婚するまでの、実家で過ごした22年間。子供の頃から勉強は抜群でしかも思いやりのあるやさしい子だったらしく、学校の教頭先生や近所の人、親戚の人など女の子が生まれると母の名前「ちゑ」を競って付けたとのことです。私が子供のころ村の人々から良く聞かされたものです。弦楽器主体の流れるような静かな中にも、未来を予想するようなメロディ構成の序曲。
第二楽章は結婚して5人の子供を育てあげ、夫(私の父親)が他界するまでの32年間。
壮絶な交響曲です。戦前戦後の食糧難のなか私たち5人の子供を育ててくれたのは並大抵の苦労ではなかったと思います。子供だけではなく若手社員も数人自宅に起居を共にしていましたから常時10人以上の大家族を切り盛りしてくれていました。子供の教育にも熱心で、特に子供に贅沢はさせない厳しい母親で一貫していました。
感情の起伏の激しかった父親の女房として、戦後の激動期をよく辛抱してくれました。
それに何より、やや子供の世話にやや落ち着きを取り戻してきた矢先、昭和29年に夫(私たちの父)が心筋梗塞で倒れました。以降17年間入退院の繰り返しの看病に明け暮れ、あの薄暗くした寝室で明けても暮れても酸素吸入の音を聞きながら付きっ切りの看病は並みの精神力でできるものではありません。当時息苦しくそして胸の痛がる病床の父の側に付き添うのが怖くて私は時々逃げ出したりしましたが、母親は気丈に一人で必死に神に祈り祝詞を上げていた姿がよみがえってきます。現在のように医療技術も医療施設も充実しているわけでなく、お医者さんも対処療法だけで、家の中はまさに地獄でした。この場面作曲家はどんな壮絶な曲を描くでしょうか。そしてとうとう昭和46年夫(私たちの父)が他界しました。
第三楽章は一人身になってからの54歳から88歳で他界するまでの34年間。夫を弔いながら一方では以前にも増して信仰の道へと進み一人静かな余生を送り続けました。人生の静けさを取り戻した音楽が聞こえるようです。会社の社員海外旅行や忘年会、そしてカナダ・ロッキー山脈へのプライベート旅行や友人たちとの国内旅行など、結構次から次へと参加し楽しんでくれました。また信仰する四国に奉られている三日月教本部へは教祖代行として毎月参詣も欠かさず、信仰の生活を楽しんでくれていたように思います。
私たち長男夫婦とは隣同士で住んでいましたが、弟・妹たち4人それに孫たちが次々訪問してくれていました。
孫たちにはいつも「忍耐・努力・感謝」を言い聞かせていました。
私には「こうして会社がやっていけるのは、神様のご加護のおかげやでぇ! 感謝を忘れたらあかん。忍耐・努力・感謝。」
77歳ごろから大腿骨を骨折したり、ヘルペスに罹ったりして生活が不自由になってきましたので、専属のお手伝いさんやヘルパーに常駐してもらいながらの生活となりました。
「お母さん! 誰でも通る道やけど、年はとりたくないなあ。」
「ほんまやなあ。しょうないなあ。」
だんだん一年ごとに体力が弱っていきます。口数も少なくなっていきます。寝ている時間が増えてきます。
とうとう持病のヘルペスが悪化し、猛烈に痛がるようになりました。物静かな母親が入院先の病院の廊下まで聞こえるほど大きな声で痛がります。これで体力を消耗してしまったのか、肺炎を併発してしまいました。
入院中はヘルパーさんは勿論、子供・孫総出で24時間交代で看病しました。
主治医の先生から今晩くらいが山だと知らされます。母はもう意識も亡くなっているのか、眠っているだけです。モニターの血圧が下がってきます。皆が「おばあちゃん!」またモニターの数値が回復してきます。
病室の窓からは夜空に満月が出ていました。しかし明け方にはこの季節には珍しい雷が轟き出しました。
そして朝方、懸命の祈りもむなしく、平成16年2月23日静かに旅立っていきました。
世を想ひ 子孫想ひつ 旅立ちぬ なほ冴えわたる 武庫川の月
たらちねの いまはの母の まくらべに 子孫寄りそひ 息の緒を聞く
たらちねの いまはの母の 息の緒は 冬の嵐に 尽きんとぞする
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