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昭和46年12月17日(1951年)私の父は心筋梗塞発作で忽然と黄泉の世界へ旅立って行きました。父が満59歳、私が満32歳の誕生日を迎えたばかりでした。
実は、父は若いときの激務過労と暴飲と喫煙からか、42歳の年齢で心筋梗塞発作を起こして倒れ、それから以降は入退院を繰り返して、会社へも出勤もままならない状態が続いておりました。
現在の医学水準であれば心臓手術で簡単に治癒できたのではないか、と悔やまれます。
病で倒れた父は「X日がいつか来る!」ということを予感・予想しているかのように、長男の私に対しては高校時代から、とにかく時間があれば会社へ出社するように厳しい命令を出していました。多少反抗期が残っているなか、父の命令そして病身の父への同情もあり素直に従っていました。
木材のことを早く覚え、また従業員たちとの意思疎通もはかるため、製材工場内・フローリング工場内・チップ工場・商社から仕入れる丸太検品の付き添い・海外へ輸出するインチ板の選別・農林省の検査の立会いなど等順番にこなしていきました。
学校の授業終わればそのまま会社に出社。春休み、夏休み、冬休みも日曜祭日も(当時は1日と15日が会社休みでした)出社の連続でした。
やがて、私も志望した大学受験に落第し、ともかくどこでもいいから大学生になって、以降は私は完全に会社経営の中枢へと傾注していきました。
当時の私たちの会社・富洋木材株式会社は南洋材製材加工の大手ではありましたが、製材加工品の海外への輸出が下火になり、国内需要への開拓を求められている転換期。そして原料仕入れ面ではフィリピン、マレーシアなどの良質木材資源の枯渇から原材料の入手難が常態化しておりました。
父親にとってイエスマンでなかった息子の私は、算盤や鉛筆、木材チョークなど飛んできて、叱りとばされてばかりいました。
労働組合が社内にでき、次々賃上げ要求されてストライキを打たれるなど、ともかく父親である社長が不在勝ちな中小企業は業績が良いはずはなく、厳しい経営が続いていました。
最終責任者である社長として、そして体調ままならず病に臥している父親のストレスは大変なものだったと思います。そうしたなか父親は死を迎えたわけで、その瞬間、私は途方に暮れ、父親のベッドの側で崩れていったのを覚えています。
悪夢のような40年前の場面は想い出すだけでぞっとしますが、あの時良くもちこたえられたことは当時の社員や従業員、それに弟たちの協力のおかげです。
今でも親父の夢は良く見ます。同じ夢ばかりです。親父が生き返ってまた会社に出社している夢です。あの厳しい父親ではなく、すごく温和な父親になって登場します。
そこでは私は弟たちと必死に親父の死後、会社のここまで変転してきた経営の経緯を説明しています。親父は何もコメントしません。「また親父の下で働こか!」とか思っているうちに、目が覚めて「なんや夢か!」
いずれにしても、現在は地味ながら会社経営もそれなりに軌道に乗っていることに、改めて創業者の親父に対して感謝の日々を送らせていただいております。
12月17日・41周忌供養は家族でお墓へお参りし、自宅のお仏壇でお経を唱え、そして創業者の親父の苦労話を子供達に少しだけ披露して、在りし日の父親を偲びました。 |
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