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堺が生んだ女流歌人・与謝野晶子は明治33年(1900年)8月6日、実家の堺から南海鉄道(当時)で浜寺駅(現 浜寺公園駅)に着き、公園内にあった料亭旅館・壽命館での歌会に参加、後に夫となる与謝野鉄幹や鉄幹に思いを寄せる山川登美子らと公園を散策したという。
燃え上がる恋心。後に情熱の歌人と呼ばれる晶子の作風は浜寺公園の恋から始まったのかもしれない。
当時の浜寺公園は、大阪湾の白砂の海辺に面し、松林が続く風光明媚な名勝の地。
壽命館のほか、一力楼、鶴の家など木造のりっぱな料亭旅館が立ち並び、関西各地から多くの人々が訪れたという。
ここで、晶子、鉄幹、山川登美子らは歌を詠み合い、浜寺を散策する。
鉄幹をめぐって、晶子と登美子の間に恋の火花が散り始めたのは、まさにこのときであった。
晶子の生家は堺市の駿河屋という老舗の和菓子屋。現在の阪堺電車の「宿院駅」近くにあった。
晶子の父は蔵書家だった。老舗のお嬢さんで母親からあまり外に出してもらえなかった晶子は店の手伝いをしながら、ひたすら「源氏物語」など日本の古典やトルストイを読みふけった。
文学の世界で知った恋は、処女の胸に何を投げかけたのだろうか。 |
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