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先輩Mさんからの被災地見舞い訪問記です。
改めて追想されるのは、被災の瞬間を経験していない私が福島・相馬に辿り着いたのは、社員とその仲間が京都から京野菜や漬物、それに掻き集めた京菓子や缶詰、それに予備のガソリンを積み込んで山形空港で私を拾い被災地に辿り着いた夕刻5時半頃のことでした。それは被災の2日後のことでしたが、国道沿いの美しく整備された知人の建物が有った前庭に、大津波で被災した人々の遺体が無造作に黒々と並べられていて、整理も区分もされてなく、遺体を覆う布切れさえない光景に、私達は言葉を失い立ち尽くしてそれを眺めました。動く人影さえ見当たらず何もかもが澱んで静まり返っていました。空か地か空間からか、何かの物音が低いうめきのように聞こえてきました。それは更に南の海岸の原子力発電所の方角からの不気味な物音でした。
知人の住まいを探すために坂道を下ってゆくと、脇道の低木に遺体がひっ掛かったまま放置されていて、運転していた若者は思わずブレーキを踏み込んでしまいました。合掌をしてやり過ごす舞慈悲を詫びながら、日が暮れるまでに知人を探すことにしました。真夜中になってやっと知人の所在が分かり抱き合って無事を喜び合いました。
少なくともこの日、一日は確かな行政施策の痕跡を見ることは有りませんでした。見覚えの有った街の佇まいは無惨に津波に押し流されて、その姿を留めてなく、この地域にある相馬駒焼きの工房を訪ねることも出来ないままに、原子力発電所のある海岸べりの、慌ただしい海鳴りのような騒音だけを気に留めながら、心ばかりの見舞いを終えて真夜中にもと来た道を引き返しました。
出発前はもっと劇的で感激溢れる見舞いの場面を想定していましたが、結果は誰もが無口で自然の脅威の怖さに押し黙ったままでした。真夜中の山形空港に一人残されて朝を迎えることとなり、その数時間は深い祈りを捧げる特別の恵みを得たような思いに満たされました。
終わり
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