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今ベストセラー作家で、後世に名を残す小説女流作家といえば高樹のぶ子さんでしょう。
彼女の「透光の樹」という小説の粗筋を追いながら、彼女の展開する恋愛論を紹介します。
高樹のぶ子 著「透光の樹」
舞台は加賀平野金沢の白山の麓の鶴来町。650年前から加賀平野を治めてきた富樫家のもとに藤島という刀鍛冶が越前から入り込んできたが、今は最後の生き残りとして山崎一族が残って鋤や鍬といった農具を作って細々と生計を立てていた。そうしたいきさつや様子を丁度25年前に取材し、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げたことのある主人公・今井郷(47歳で、無論家族持ちで現在プロダクション社長)、は当時女学生であったその山崎家の一人娘である山崎干桐が忘れられず、25年後にたずねていく。山崎千桐は42歳になっていて、しかも2年前に離婚していて一人の娘と肺ガンになった86歳になる鍛冶職人の父の面倒をみながら細々と暮らしている。収入もなくいささか金にも困っているようである。今井は何度か訪問する内に二人の間に恋愛感情が芽生える。
今井にとって千桐という女性の魅力は目鼻立ちは整っているというより、盾や目が顔の真ん中にこじんまり寄ることで、いまだ少女の無邪気さを残している、その一方で放心のあとで視線を持ち上げる一瞬など邪まなまでの色気が視線を受け取る相手に伝わってくる。彼女自身はそんなことの意識は全くない。こうしたことは顔の表情だけでなく全身についても言えることで、たとえば丸首のワンピースが深い胴のくぴれと腰のやわらかな肉を浮き上がらせ、背後からはお尻の筋肉の張りまでも実感させ、そこから下肢にかけての成熟しきった曲線をあらわにしていることなど、彼女は知らない。おまけに声は、本人が突き放してぶっきらぽうに言えば言うほど、鼻にかかって高くなるのである。上気した白い頬の上に黒々とした切れ長な目があり、その目の奥から出てくる光は唇の動きと不思議な連動をする。やわらかくて深いほほ笑み、そして明快に語尾まで響く命令口調の、しかも受け取る者を素直に反応させる甘やかな余韻。
再び白山に会いにきた郷を車に乗せて、同じように千桐も、郷を観察していた。この人は今47歳だが、お腹も出ていないし肩や背中にも肉がついていない。けれど目の下や頬はたれぎみで白髪もかなりある。それが老いを感じさせないのは、《 多分、恥じらう気持ちをもっているせいだわ。その恥じらいは少年の気後れとは少しばかり違って、努力してみたけど不可能な場面に、何度も何度も立ち合い、さんざん挫折ってものを味わったあげく、それでもまだ何かを望まないではいられない、そんな自分への、哀れみや苦笑に似ているのかも知れない。こういう屈折Lた、ちょっとヤクザな中年の恥じらいがあるからではないか。》
今井郷は、ある日泊まることになり、千桐は彼を知り合いの旅館に案内する。旅館の女将から千桐さんも泊まっていきなさいよと勧められる。そこで二人きりになる。今晩深い関係になるかどうか男性側も女性側もそのことばかり頭にある。郷の方は「今晩は干桐が泊まってくれるのか予測がつかず、干桐にいくばくの借金の肩代わりのお金だけ渡して二人の間に何も起こらず千桐が帰ることも心のどこかでは考えていた。つまり心のどこかに今日は関係を結べなくても仕方ない。」むしろ自分白身への言い訳けを、考えているところがある。一方女性である千桐の方は「もうとうに、その夜起きることを何度もみた映画のように、自分流に細部までシナリオを用意し、失敗のないように、反覆し、頭の中で幾度となく疑似体験していた。」《 肝心なときに、男がおどおどし、女が妙にずぶとく腰が座って見えるのはそのためで、女はあらかじめシナリオができているのではないか。男というものは女の覚悟の深さを想像しにくいものらしい。
郷と千桐は結ばれていくわけですが、女性作家が男の主人公の立場に立って性の心理状態も描写してもいるのが面白い。
郷は1カ月に一度は千桐のもとを訪れて関係するわけですが、ここで作者は二人の間に恋愛論を論じ合わす。
「恋愛感情とは?」
「どんなに情熱的で激しくても、その人が居なく在ったとき、他の人で埋め合わせできるのは恋愛じゃない。お互いに離れ離れになったとき、どうしようもない欠落感が生まれるもの。」《 だから恋愛には悲しみの感情がくっついている。人は恋愛しているときに恋とは何かを考える。本人が恋をしていないときの恋の理論などあまり価値があるとは言えない。》
しぱらく二人が逢う期間が空く。今度は彼女から出向き東京の彼の事務所兼レジデンスで二人は会うことになる。
「もうおそかれ早かれお互いに灰になってしまう。私たちのような恋愛をして誰にも気づかれずに、子供も残さずに、誰の記憶にも残らず、ああ生まれてきてよかった。この人に会えてよかった。こんなに燃え合ってよかった。って神様に感謝した男や女たちが過去にわんさか埋もれているんだろうな。しかし生きるためには忘れなくちゃならない人間もいる。僕たちは忘れなくちゃ生きていけない人生なら、もう要らないなあ。」
「それって歳をとったということ?」
「そうだよ。歳をとっていいことは何もないと思っていたが、これは間違いなくいいことだ。」
しばらく二人が東京と北陸での離れ離れの期間がまた続く。これは今井郷の方にここ数カ月激しい腰痛を起こしていたからであり、病院の検査の結果、直腸にできた悪性の腫瘍をすぐにでも手術するよう勧められた。郷は薄笑いながら、「先生これが胃ならすぐにでも取りますよ。」と言って断る。実際直腸から肛門までを取って人工の排泄器を付けた姿でどうやって干桐と接するのか。それで少しばかり寿命が永らえたところで彼の人生に何の意味もない。結局彼は手術しないことに決める。こんな病気にかかるのは彼の若い時からの不摂生の賜物であることは承知していたし、干桐と会えたこの2年間も人生歳後の美酒として神に与えられたのかもしれず、この美酒を断ってほんの少し生きながらえたところで仕方ないではないか。
そして二人は最後の夜をともにする。郷は干桐を背後から抱き締める。
「郷さん、死ぬの?」
「うん、死ぬらしい。」
「いつ?」
「まだわかんない。死んだら知らせるよ。」
「生きられないの?もっといっぱい。」
「無理みたいだ。死んだらここに帰ってくる。」
「わたしも死ぬ」
「いつかはね。早いか遅いかだ。」
《 人は限りある時間を意識したとき、かえって悠久の概念につかまって気持ちが大きくなる。みみっちい現実に捕らわれたくない、》という親持ちは郷を無垢な哲学者に、そして千桐を絶え間無く続く波の音のような、言葉がふれ出る童女に変えていた。》
また、《 人を愛してしまうと、人は単純で幼くなるものだと、彼は千桐に出会って以来何度となく実感してきたのだが、いま改めて、世間に満ちている知や理の複雑な網目からこぽれ落ちた、あまりにも単純な恋愛の力に呆然となる、もしかしたらこの単純な力を発揮させようとして、人間は知や理を発達させたのかもしれない。だとすれば、人を恋する心というのは、もはやこれ以上因数分解できない、有機的な結合であり、心の原形だとも言える。なぜ好きになった? その答えはすべて屁理屈、あとからのこじつけで、何故嫌いになったかには理由があっても、何故好きになったかは、天から恋の媚薬が降ってきたとしか説明のしようがないのではないか。》
最後の愛を交わして郷は翌日東京に帰っていった。そして二人は二度と会うことはなく、やがて郷は死ぬ。郷が死んだことは干桐に一本の刀が送られててきたことで知る。それは郷が昔、干桐の父親から買った刀であった。干桐は呆然として日々を送る。次第に奇行が目立ち、天国にいる彼に電話をかけてばかりいる。
皆さんも時間があれば読んでみられたら如何ですか。
但し、子供は駄目ですよ!!!
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