戦争しないために備える
ロシアによるウクライナ侵攻、北朝鮮の核・ミサイル、中国の力を振りかざした権威主義的動向などにより、日本人の意識にも徐々に変化がみられる。だが相変わらず「平和」という言葉は乱用気味で、それを確保する具体策になると口を閉ざす。先日テレビで「平和のためには、いくら税金をつぎ込んでもいいが、ミサイルにつぎ込むというのはチョットねえ・・・」とコメンテーターが語っていた。あなたの言う「平和のため」の具体策とは何?と聞きたくもなる。
誰しも戦争より平和が良いに決まっている。だが「平和」をいくら叫んでも「戦争反対」と連呼しても、平和は得られない。平和は得るものではなく、努力して獲得するものである。「汝、平和を欲すれば戦争に備えよ」と戦略家は語っている。昨年、安全保障関連3文書改定に向けた有識者会議でメディア出身の委員が「戦わないために戦える備えを常に維持することだ」と述べた。
国防や安全保障は本来逆説的なものである。懸念される事態に万全の態勢で準備しておけば、そのような事態は発生しにくくなる。それが抑止力であり、平和を獲得する最良の方策である。筆者はこれを信じ、戦闘機操縦者として人生の半分を国防にささげた。退官の日、厳しい訓練で磨いた技を使う機会がなくて良かったと心底思った。何事もないことの大切さ。「我が汗、無駄になれ」と今日も訓練に汗している後輩たちがいる。理解して応援してやってもらいたい。
周囲がきな臭くなっている。この期に及んで、憲法9条を守ってさえいれば、平和が維持できるという人がいる。日本が戦争を放棄しても、戦争が日本を放棄しない。最悪に備えて抑止力を高めなければ、台湾有事は起こりうる。台湾有事が起きれば、戦争の惨禍は南西諸島に及ぶ。だが南西諸島にはとどまらないだろう。戦争は一旦起こると、取り返しのつかない悲惨な状況になる。ウクライナを見るまでもない。戦争抑止のために、あらゆるリソースを突っ込むほうがよほど安価で安全である。
戦後、大学から「軍事」や「戦略」などの講座が消えた。軍事や国防をタブー視することが「平和国家」だとする「空気」が未だに蔓延している。学者が集う日本学術会議が軍事研究を行わないことを標榜している悪影響は大きい。
防衛省が実施する安全保障技術研究推進制度(先進的技術の基礎研究を公募する制度)には異を唱えながら、中国に招聘されたら、人民解放軍参加の国防7大学で研究を実施する。中国軍ならよくて、防衛相ならなぜダメなのか。学問には国境はないという。だが、学者には祖国があるはずだ。そもそも日本で軍事研究をすれば、日本が再び侵略戦争をするとでも本当に思っているのだろうか。象牙の塔に籠っていないで、広く国際情勢に目を見開いてはどうか。
戦争中、悲惨な体験をし、戦後には住む家のなく、ひもじい思いをした先人達が「戦争」「軍事」などの言葉を聞くと、条件反射的に「反対」と思考停止するのを理解できないわけではない。だが見たくない戦争から身を背けず、戦争を未然に防止すべく国際社会と連携し、時には血を流す覚悟も持たなければ平和は勝ち取れない。
米軍の友人が日本の思考を「オストリッチ・ファッション」と揶揄した。オストリッチ、つまりダチョウは危機が迫ると穴に首を突っ込む習性があるという。真実に向き合わず、無知ゆえの安心の上に成り立っている虚妄の平和を享受する。安全保障をワシントンに丸投げできたからこその日本の得意技だった。頼みの綱の米国も相対的な力の低下は否めない。
昨年10月、米国は国家安全保障戦略で「統合抑止力」という概念を打ち出した。「われわれは軍事力近代化と国内の民主主義強化に取り組む。同盟国もその種の能力に投資することや、抑止力を高めるのに必要な計画の立案に着手することなどによって、同じく行動するよう求める」と。もう米国だけに任せず、同盟国も手伝ってくれという米国の悲鳴である。もはや米国に丸投げして安逸をむさぼることはできなくなった。
「戦争のことを考えなければ星和が続く」といった愚昧さから、そろそろ目を覚まさねばならない。国家の安全保障とは、つまるところ国民一人一人が真剣に国の行く末を考えることである。考えたくないことを考える。最も起こってほしくないことを考える。これが安全保障の基本である。平和を維持するためにも、この基本に立ち返ろうではないか。
元空将・織田邦男氏 名文
|