われわれは自分自身の意思と力によって、この地上に生まれた人は一人もいない。もっと生きていたいと思っても死ぬ。自分の意志ではどうにもならない。
結局大宇宙というか、壮大無限な宇宙生命によって、この地上にその生を与えられているわけである。
ある意味では、神からこの世へ派遣せられたものといえる。
従っていかなることが、自分に課せられた使命かを突きとめねばならぬ。
私たちは平生読書を怠らぬことによって、つねに自己に対する内観を深めそれによって眞の正しい実践のできる人間になることが肝要である。
読書、内観、そして実践という三段階はわれわれ人間が進歩し、深められてゆくプロセスといってもよい。
幸福を獲得する秘訣は第一に自分のなすべき勤めに対して、つねに全力を挙げて、それと取り組むこと。
第二につねに積極的に物事を工夫してそれを見事に仕上げること。
そして人に対して親切にし、人のために尽くすことと森信三は教えている。
「七世の父母の恩恵を忘れるな」先徳のことばである。私には二人の親がある。祖父母は四人、その先は8人、七代さかのぼると128人。合計すると254人。妻にもおなじように254人あるから、一家では508人になる。これだけ多くの人たちのおかげで、現在のわが家がある。
このうち一人でもかけていたならば、今の私はないことになる。
人生を坂道にたとえれば、私はこの多くの人達に、うしろから押し上げてもらって登っているような気がしてくる。根のない木はない。
どんな木でも表面からは見えないが、多くの根が地中にあってこそ上にのび、芽を出し、葉をつけて生きている。
私を木にたとえれば、私は目に見えない508人もの人達の根によって生きているとも考えられる。
「平家物語」で平清盛は子供の敦盛を諫めている。「人の運命の傾かんとしては、必ず、悪事を思い立ちそうろうなり」
(人の運命が傾いてしまうときには、必ず、悪事を思い立ってしまうものなのだ。自分自身は悪いことをしているという自覚はないのだが、第三者から見ると「あんなことをして」ということをやっているものだ。)
「運命」という言葉には、運が良い、悪いというように、自分の力ではどうにもならない、といった他動的な響きがある。
しかし運命は「命(いのち)」を「運ぶ」と書き、自分で自分の命を運ぶところに、運命の積極的な意味がある。自分の人生を創り出してゆく行為が「運命である。」
しかし私たちは仏の広大な慈悲の中に包まれていることを忘れてはならない。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉は、「天命にまかせて人事を尽くす」と読むのが仏教者の読み方である。運命とは、すべてを任せた中での人事を尽くす努力であり、命を運ぶ努力である。
子曰く、吾れ十有五にして学を志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したがう)う、七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こえ)ず。 (論語)
高校野球の監督が、バッターボックスに立つ選手に「無心でいけ」と、よくいうのは、「何も思うな」ということではなく、相手のピッチャーがどのような球を投げようと、その球に即応できるような心境でいけといっているのである。
いまが楽しい。いまが有難い。いまが喜びである。「極楽は 遠きかなたと 聞きしかど わが極楽は この身このまま」 (平沢 興)
自分に欠点があるから人の欠点に目につく。人の欠点が目につく間は、まだ駄目である。 (平沢 興)
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