「汝自らを知れ」とソクラテスは言った。人間と神との対比の中での自己認識、つまり「不完全性の自覚」である。この「不完全性の自覚」をさらに深く考えることによって、人間というものがどのような生き方を基本に持てば、本物の人間として生きていくことができるのかという問題が展開されてくる。「不完全性の自覚」ということを単に「人間は不完全である」とか「人間は失敗するものである」という自覚だけにとどめておいたのでは観念としてしか残らない。
本当に自分が「不完全だ」ということが、実感として感じられるためには、どうしても人間には「失敗してしまった」という悔いる心が必要になってくるのである。
換言すれば人間は本当に不完全な存在にならなければ「実存している」とはいえない。罪を犯さずに「人間は不完全な存在だ」とか「人間は罪人だ」ということを観念で思っていても意味はない。
人間は「罪を犯す」ことによって初めて本当に不完全なるものとして実存することができる。なぜそれが大切かというと、人間は責められるとすぐに「自分は悪いことなど何もしていない」と言いがちである。ということは人間であるべき「不完全の自覚」というものを観念だけでしか認識していない、自己認識というものをトコトンまで深めていないということを物語っている。
人間は軽く言えば、「失敗をしなければならない」し、きつく言えば「罪を犯さなければならない」存在とさえいえる。
それによって人間は初めて「罪の意識」を持ち、「悔いる心」が感性の中から湧き出て、謙虚さというものを持ち得る本物の人間になれるのである。「罪を犯したことがない」という意識で生きているような人間は、私の「感性論哲学」の立場でいうと、はっきり言って「善人間性の人間」ということになり、そういう人間は自分の失敗や罪を棚に上げて他人を責めるというタイプで、心の底から滲み出る人間らしい謙虚さがない。
人間においてよくいわれる三大価値「真・善・美」とい価値観である。いかに美しい人でも謙虚というものがその根底になかったならもう「美」は失せてしまう。「傲慢な美人」なんてものは決して美人とはいえない。
また、いかに良いことをしても「傲慢なる善」「謙虚さを欠いた善」というものは偽善としかいいようがない。
さらに言えば「謙虚さを欠いた真理の主張」「謙虚さを欠いた正義の主張」などは、人類の対立や戦争の欠種に過ぎない。
人間が「不完全性の自覚」から滲み出てくる謙虚さというものを獲得するにはどうしたらよいか。厳しい言い方をすれば、その為には人間は罪を犯さなければならない。いや罪を犯してしまったという自覚がなければならないのである。私達は自分自身の過去を振り返ってみると、そういう罪の意識は必ずある。
「お父さん、お母さんからいろいろな事をしてもらった。しかしそれに対して、自分は一体どれだけのお返しをしただろうか」という疑問、自省がある。その恩に比較したら、「お返し」なんか本当に数えるほどしかない。それどころか、もっと悲しく、辛い思いをさせている。かけがえのない両親に対してすら「罪深い」存在であったという事が、次々と思い出されるはずである。
そればかりでなく、いろいろな人間関係の中にあって、あの時、あの人に「なぜあんなことをしてしまったのか」「なぜああいうことをしてしまったのか」本当に申し訳けのないことをしてしまったという事実が一杯あるはずだ。思い出すだけでも「穴があったら入りたい」という事実としての体験、経験がある。
それらを本心から自分の意識の中に常に持っているとすれば、その人こそ、不完全の自覚から滲み出てくる謙虚さというものの中に自分の身を置く事ができるのである。
そういう生き方を基本に置く事によって、初めて人間は「澄んだ気持ち」でというか「安定した精神状態」で自分をもまた他人をも眺め、接することができる。
失敗したこともなく、成功しかしたことのない人間の力など底の浅いものである。
キリスト教の人間観に第一に「原罪意識」というものがある。神は「不完全性の自覚」を持ち得た人間こそ初めて本物の人間としてそれを褒めたたえ、「その罪のままで救われる」という救済という言葉を用いている。
人間が「本物の人間」であるための基本的な条件は三つある。第一は「不完全性の自覚」から滲み出てくる謙虚さである。第二は第一を根底として「より以上のものを目指して生きる」第三は「基本的に社会的な存在なのだ」ということである。
人間は社会においてこそ人間になることができるのである。つまり人間は自分自身がより良いものを目指して生きていき成長したといっても、ただそれだけでは自己満足にすぎない。
本当に現実の社会の中で、現実に生きていくためには、人の役に立つ存在にならなければならない。人に必要とされる人間にならなければならない。
大切なのは「自分がより以上のものを目指して生きる」という自己実現の世界で、自分が獲得した能力を社会の中で、どう展開させていくか、という事を常に考えて生きていくことであろう。これらの条件を満たそうと努力することによって初めて人間としての「格を持った人間」として生きていくことができる。
人格には「高低」「深浅」「広狭」という三つの次元ある。まず人格には「高さ」がある。人間は一体、自分をどこまで高めることができるのか、言い換えれば「どこまで高貴なる精神を持ち得るのか」という、そういう問いかけを持ちながらその人生を歩む必要がある。
次は「深さ」である。「一体人間はどこまで深かくなれるのか」という視点で、小説や書物を読み、会話をし、生活すべきである。
人間とはいろいろな外部からの示唆を得てこそ成長するものだといえる。この人生の問いにこそまさに、感性論哲学の本質である。「求感性」なのである。単なる「感受性」ではない。求めなければ入ってこない感性こそ、感性の本質である。だから、人格を磨く上においてもこの「求感性」がなければ、高さも深さも広さも追及できない。
人間は人生を賭けても、命を賭けても自己実現しなければならないことが二つある。それは「意思」「愛」である。「意思を実現すること」「愛を実現すること」そこにこそ人間の生きる目標があるわけである。
「より以上のものを目指して生きる」ということは一種の意思の実現であり、また「人の役に立つ」「人に喜んでもらえるように仕事を磨く」ということは愛の実現である。
それをさらに突き詰めていくと人間は「このためになら、死んでもいい」「命を賭けてもいい」という目的がはっきりと見えてくるはずである。それによって「命」というものは、初めて完全燃焼しきることができる。
人間において生きるとは、ただ単に生き永らえることではない。なんのためにこの命を使うか、この命をどういかすか。そして命をいかすということは、何かに命を賭けることである。
命の最高の喜びとは、命を賭けても惜しくないほどの対象に出会うことであり、そこに「澄心妙感」の極意というものが得られるのではないか。
(芳村思風先生)
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