882年、北欧バイキング勢力の一人、オレグがキーウ(キエフ)を占領して古代ロシア(ルーシ)を建国。
100年後の988年にはキエフ大公ウラジーミルがキリスト教を国教(ロシア正教)にしてヨーロッパ型の国家形態をつくるが、『苦難のロシア』と言う言葉があるように、隔てるものが何もない大草原に住むロシアは、周囲の諸民族と常に殺し、殺される苦難の歴史を重ねてきた。だが、九世紀になって今のロシア・ウクライナは幾つかの通商路・海路に位置する都市国家に発展、その北方に『ノブゴロド』などの共和制国家なども作り、イタリアの諸都市的な方向を目指してきたが、これを断ち切ったのは1237年のモンゴル軍の襲来であった。これにより、キーウは完全に破壊され、職人は連れ去られ、経済は壊滅してしまった。
これ以後、モンゴルの侵入は免れたノブゴロドを除き、現在のロシア・ウクライナの大部分は200年あまりモンゴルの支配下に置かれる。
モンゴル支配下の半ばごろ、キーウの東「モスクワ」でモンゴルの目を盗んで『モスクワ大公国』が起こる。1480年、次第に力をつけてきたこの国のイワン三世は自らツアー(皇帝)を名乗り、モンゴルに対して独立を宣言し、その孫のイワン四世(雷帝)の時代には、モンゴル勢力の拠点カザンを制圧する。
ここで、イワン雷帝がモンゴルの支配を逃れ共和制で繁栄した同民族のノブゴロドを抱き込んで西欧諸国のように近代文明への道に進めば良かったのだが、まるで現在のウラジミール・プーチンのように自らその道を断ち、1570年、帝政の邪魔になるとしてノブゴロドを攻め、民主制の核になっていた商人・貴族・インテリ層を中心に約3000人もの人を剣と槍で惨殺した。文明よりも領土を求めた雷帝は、1557年コサックの頭目だったイエルマークを使ってウラル山脈を越えてシビル・ハン(シベリア)を征服した。
それから300年、東ではイスラムやアジア勢力と騙し騙され、殺し殺されながらも衰退期にあった中国の清朝の版図も浸食、西ではロマノフ朝の不凍港を求めた南下政策でクリミアまで手に入れ、別表のようにバルト海から太平洋に至る世界最大の領土を手に入れた。ロシアの西から東まで11時間の時差があり、面積でも中国や米国の2倍に近い。ここまで広くなると、常に上から押さえつける形でなければ統治不能になりがちだし、権威主義=専制でなければ治まらないし、権威主義を強めるには領土拡大による国威発揚が必要になる。
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