「二重スパイ」:シュレッダーが備わっていなかった往時のソ連のオフィス。不用になった書類をビリビリに破き、書かれていた文字などの痕跡をなくした上で捨てるようにしていた。さらに室内では、当局の盗聴から逃れるためラジオをつけっぱなしにしていた。今でもその癖が残っている。まるでスパイごっこ。とはいえ、現地スタッフは当局から派遣されていたので、あまり意味のない事だったが・・・・。
ソビエト社会主義共和国連邦は、マルクス・レーニン主義に則る階級も搾取もない理想社会実現に向けた共産主義体制を志向し、レーニン主導の革命によって樹立された。だが内実は理想とはほど遠く、財産と生産手段を握ったソ連共産党がすべての権力を集中させた上、これに共産党内での権力闘争が加わり、全体主義的な独裁体制が出来上がっただけに過ぎなかった。
このソ連と反目し対峙していたのが、自由主義・資本主義社会のさらなる浸透を志向するアメリカをはじめとする西側諸国だ。両陣営とも国力を伸長させる目的で核保有を進めた。そしてこの軍拡競争によって東西対立が深まっていく。冷戦の始まりである。
西側諸国に比べ、ソ連邦国家やその指導者たちは非常に憶病だった。西側を過剰に恐れていた。それゆえ、情報統制を徹底し、市民やスパイを監視・摘発する目的で秘密警察を組織する。これには軍隊内の組織もあるが、巷で名前の通っている代表格は国家保安委員会「KGB」(Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)である。西側にも同様の組織や情報機関は存在する。英国の007シリーズで知られるMI6や米国のCIA、イスラエルのモサドなどである。対立する国は、その相手国の持つ機密情報を入手する目的で、その懐に自らの謀報員を送り込んだ。正規雇用員もイリーガルな人間も含め、それらはスパイと総称される。
オレグ・ゴルディエフスキーというKGBのスパイがいた。彼はソ連邦という国家体制の申し子だったが、ソ連軍による同胞ハンガリーへの介入(ハンガリー動乱)や東西対立の最中にベルリンの壁が築かれたことを機に、愛すべき国家へ疑義を抱くようになる。世界の安寧を実現する自負とその任務を担う情報部員という職にも疑問を呈し始める。それはやがて、「敵国」である英国のMI6への情報提供を行うことにつながった。つまり二重スパイの誕生である。
歴史上には数多くのスパイが存在した。MI6の長官就任が確実視されていた英国人キム・フィルビーは最も有名である。彼はソ連のスパイだった。そのような手合いの中でゴルディエフスキーはどのような存在だったのか。私自身、彼の名前はおぼろげに記憶していたが、具体的にどのようなスパイ活動をし、何に寄与、貢献していたのかはあまりよく知らなかった。
彼はソ連への失望感から、ソ連を西側諸国のような文化的で自由な国家に転換させようと考えた。そしてMI6に協力するようになる。西側諸国の情報機関にとって、工作員をKGBに潜入させることは、まるで火星にそれを送り込むぐらい無理だとされていた。
時代をさかのぼって彼の功績を述べていこう。ソ連の軍用機による大韓航空民間機撃墜事件は悲惨な出来事だったが、今やそれは互いのパイロットの未熟さの引き起こした帰結と史実が語っている。1983年9月1日の出来事だが、この事件は個人的にも辛く切ない思い出となって、いまだに脳裏に刻み込まれている。ともあれ、これを機に世界中がソ連を一層敵視するようになった。不信と誤解と敵意が渦巻く。
しかし実は、さらに震撼させる出来事がこの2カ月後に起きていた。机上演習「エイブル・アーチャー83」。冷戦から実際の戦争に向かわせるような試みだ。キューバ危機以来の核戦争の危機が高まったとされる米国や西欧のNATO加盟国が参加したこの演習は、大韓航空機追撃事件で国際世論が反ソ連に集約された状況下において、非人道的なソ連に対する活動として支持されやすかった。当時のソ連のトップはアンドロポフ書記長。元KGB議長の彼は、西側諸国がソ連を包囲し滅亡させることを目論んでいるという猜疑心にさいなまれていった。不安や恐怖で他者が常に自分を批判している妄想に取り憑かれた偏執症(パラノイア)状態にあった。
その状況下でゴルディエフスキーはKGBの内部情報をM16に漏洩することによって、実質的な戦争突入を回避させた。それは世界の崩壊を抑止する行動だった。折しも当時の米英のトップは、レーガンとサッチャー。ふたりとも反共産主義を標榜していた。レーガンは自由を抑圧し対外膨張を図るソ連を「悪の帝国」(evil empire)と呼んで非難し、力による平和戦略を各国に呼び掛けた。いわゆる「レーガン・ドクトリン」である。その中のひとつが「スター・ウォーズ計画(SDI=戦略防衛構想=)」である。ソ連はこれに対し過剰に反応するが、抗う手段は何ひとつ持ち合わせていなかった。ゴルディエフスキーは、KGB内で得られた個別のソ連の機密情報に留まらず、ソ連の指導者の性癖や言動傾向、議題の落としどころなどをMI6を通じて西側に漏らしていく。この行動が衝突回避につながった。
サッチャーもレーガンもこの彼の情報に救われる。この信頼関係はその後とも継続していった。サッチャーのソ連嫌いは有名だが、アンドロポフ、チェルネンコを経てゴルバチョフと為政者が変わっていくにつれ、その関係性は変化していく。ゴルバチョフという改革主義者を得たソ連は英国とのトップ会談によって、いやゴルディエフスキーの根回しによって変容した。サッチャーから「ゴルバチョフとならビジネスができる」という有名な発言を引き出した陰には彼のこの働きがあった。サッチャーはゴルディエフスキーを体制に対抗して立ち向かう人物だと種別した。
当然ながら、CIAにも二重スパイはいた。国家のイデオロギーに拘泥しない自由主義国のスパイという性格上、大半は自らの欲望のために行動する人種に属する。二重スパイになる動機の多くは金銭。ゴルディエフスキーは、この人種によってKGBの網にかかり、生命の危機に陥った。だが最終的に彼は、関係者の尽力によって英国への「決死の逃避行」に成功し亡命を果たす。さらに彼の功績は大いに評価され、エリザベス女王から勲章を授かる。今も英国のどこかで匿名で暮らしている。
小説や映画で、スパイは冷戦時の産物といわれてきたが、ソ連邦崩壊によって東西対立がなくなった今でも、米国はじめ英国、イスラエルなどとロシア、中国のスパイ合戦は継続している。ただその目的は、イデオロギーではなく産業分野に移りつつあることは否定できない。だが、それだけでもない。一昨年、英国で発生したロシアのGRU(軍参謀本部情報部)の元スパイであり、MI6との二重スパイが、その娘とともに襲撃された事件。ゴルディエフスキーと比較すると小者であるが、現に存在している。
「拘束の波紋」:9月の産地情報でロシアの反体制指導者・ナバリヌィ氏毒殺未遂事件が起こったことを伝えたが、先日療養中のドイツから帰国直後にモスクワの空港で拘束された。そのままドイツに留まる選択肢もあったが、彼は敢えて拘束を恐れず帰国する道を選んだ。
帰国した際に当局が拘束するかどうかに関心が高まっていた。世論に配慮するならば、反体制派の人物を泳がせて懐の深いところをみせるオプションもあったが、9月に下院選挙が予定されていることもあって、野に放つことは危険だとの考え方が勝った結果だとみられる。
恐らくこの当局の判断を予測していたのだろう。機先を制して、ナバリヌィ氏の支持者がプーチン大統領の汚職の実態を暴露する動画をインターネットで公開した。その動画には巨大な邸宅が映し出されており、ロシア南部の黒海沿岸にあるプーチンの私邸だと主張し、国営企業などから利益を吸い上げた構図を明らかにしたものだ。建設費は少なくとも1000億ループル(約1400億円)とみられている。汚職の真偽は不明だが、動画の再生回数は公開初日だけで200万回を超えた。
さらにロシア全土で先日ナバリヌィ氏の解放を求める反政権デモが発生した。それは極東のカムチャッカ半島から西部サンクトペテルブルク市に至るまで100都市以上の規模にまで及んだ。政権側は治安部隊を投入し強硬姿勢で抑え込みをはかり、少なくとも3000人以上を拘束した。ロシアにおいてデモで拘束された人数としては、ここ数年をみても最も多い。デモ参加者は「泥棒プーチン」、「ナバリヌィを解放しろ」などとシュプレヒコールを上げ、今後も定期的にデモを実施する方針だ。
この反政権運動の及ぼすインパクトは決して小さくはない。すでに、主要7カ国(G7)の外相とEUの外交安全保障上級代表は、ロシア当局に対し、個人が意見を表す権利を警察が暴力的に抑圧するのは容認できないとし、即時かつ無条件にナバリヌィ氏の釈放を求める声明を発表している。一方のロシアは、「不当な内政干渉」だと耳を貸さない。
因みに、かつてナバリヌィ氏は、メドベージェフ元首相(大統領)の汚職スキャンダルをSNS動画で公開し、同氏に打撃を与えた(今は政治の表舞台から退場している)。今回の公開による影響の推移を今後もみていきたい。 |