盟友 故松中修身大兄 随筆集紹介(3)

紅葉散る

かにかくに 衹園はこひし 寝る時も 枕のしたを水のながるる

これは 歌人の吉井勇が、愛する衹園、とりわけ白川にせり出すように座敷が造られていた往時のお茶屋「大友」を詠んだ句である。この歌碑は、遠く白川通の彼方から、衹園を経て鴨川へと注ぐ白川のほとりに、吉井勇を偲んで建てられているのである。

この「かにかくに祭」の十一月八日までは、錦秋の都に相応しい気候が続いていたのに、この日、芸妓、舞妓たちが歌碑に献花を手向け、抹茶や蕎麦を振舞う祭りを終える頃から、俄かに初冬に降るような冷たい雨が降りだし、その雨は幾日か続いたのであった。

この年の晩秋は気候が不順であった。南座の吉例顔見世大歌舞伎の人気さえも、過熱しないまま年の瀬を迎えるのではと人々を心配させたし、冷夏が様々に影響して、一層、不況感を掻きたてて、日本全体が底知れない経済不況に陥ってゆくような不安感が広がっていたのだった。京都でも老舗の料亭も経営難かという、心無い噂が広がったりして、人々は様々なデマや憶測に翻弄されたりもしたのであった。確かに、バブルが崩壊したことで古都にも負の累積が影を落とし、その負の遺産は町の佇まいにも大きな影響をもたらしたのだった。

しかし、もともと「町衆」が京都を支えて来たという京都人の辛抱強さは、地元が世界に誇る企業や地場産業、そして寺院や伝統産業に百貨店や商店街、されに行政や教育や伝統芸能文化までもが、懸命に劣勢な経済状況を支えて頑張ったのであった。

京都には初春の「始業式」から、大晦日の八坂神社での「おけら参り」まで、春夏秋冬あらゆる祭礼や商売の節目に、そして稽古事において、二十四節季毎の歳時記がぎっしりと定まっている。この期日と行事は昔から連綿と継承されて絶えることが無いのであるが、とり分け花街や、一部の芸事の世界では「始業式」に始まって、二月には舞の師匠宅に新年の挨拶で集う「初寄り」があり、八月一日には正装で踊りの家元や師匠に「八朔」の挨拶を交し、十二月では「顔見世総見」で南座の表桟敷や裏桟敷に、それぞれ花街の椅麗どころが揃って歌舞伎を観劇するのである。それを終えると正月の支度に入る「事始め」があり、最後に一年間お世話になった茶屋に「お事多うさん」の挨拶を交わして、一年を締め括るのである。挨拶をする側もされる側もきちっと決まりが有って、贈り物等の準備を怠ることはないのであった。

日本舞踊でも、五花街がそれぞれ流派の特徴を発揮して踊る「舞踏の会」や、京都に稽古場を持つ各舞踊の流派が演じる「京の会」は、自主運営の自主公演で長い歴史があり、毎年、夏に開催される衹園町の東京国立劇場の「京舞」も長い伝統を誇っているのである。

このような営みを連綿と継承する古い因習の町では有るが、この因習こそが、この京都のスプリング・ボード(跳ね板)となっているようであり、不況時にもこの行事をきっちりと果たす責任感と自覚、そして誇りが、逆境時の反発力を生み、障害を乗り越えて来たように思われるのである。

ただ、この京都の雅の文化に引き寄せられてくる観光客は別として、花街を利用して商用接待する「客筋」のレベルは年々低下し、粋人の高齢化と激しい世代交代により、格式を誇る花街の伝統も文化も理解し得ない、無芸大食の無粋な人たちが主流となり、時にはお座敷は略式の無礼講と化しつつあった。その原因と結果を究明することは難しいが、花街にカラオケが浸透したことが、一つのキーポイントではなかったと思われるのである。それに茶屋の一階を大衆に開放するようにバー・カウンターを設備したことも、花街の低俗化に拍車を掛けたようであった。勿論、カラオケの類いを一切置かない茶屋が今日でも数多く存在しているのは事実であるが…。

しかし、こうして得られた常連の客も、詰まりは、お座敷や茶屋の雰囲気には馴染むことは出来たが、それはカラオケという安直な道具を通してであり、花街の伝統文化や決まりを理解してのことでは無かったのである。こうして芸の研鑚に励んできた地方の居場所は座敷から遠退き、それはそのまま立方の若い芸妓や舞妓の作法の乱れにも繋がっていったのである。当然、この世界も綻び乱れてゆくのは必至であった。中には舞妓の心根も気品も気位もが影を潜め、屋形の育て方が容易に窺える例も見られるのであった。

勿論、昔のようにお座敷の決まりごとや、座敷芸の理解を客に求めていては、今日の茶屋経営は成り立たない側面はある。しかし、少なくともお座敷の決まりや、献立や味付けで「仕出屋」の味わいを楽しむという、料理の知識や作法は心得ていて欲しいものである。かつて、有る著名な電器会社の役員と宴席を共にしたことが有ったが、箸の持ち方も料理の食べ方も、そして会話さえもが、本人の自信に満ちた手柄話とは裏腹に、恥ずかしいほど無粋であったことが忘れることが出来ない。しかし、当時の花街はそのような客に対しても、逞しく、そしてしたたかに取り入ってゆくのを垣間見て、やがて花街も大衆化して行くのが必至であると、寂びしく複雑な心境を味わったものであった。

あれから何年が経過したであろうか、未だ日本経済の再興が果たせたと言える状況には至っていないが、大きな帆船が左に傾いていたのだが、自律的に右に揺り戻し、反転して、やがて姿勢を制御するように、少しずつ日本経済も「負の遺産」を整理しつつ、徐々に回復してくるように見える。

この時期に、五花街の営みに更なる活気を取り戻して貰いたいが、例えば、衹園町が衹園町であるためには、芸妓、舞妓の教育の一端を荷う「要の地位」にある井上流や、お囃子その他の稽古場での師匠の存在に期待したいものである。また、衹園町では日本の女子教育の草分け的な歴史を持つ、女紅場学園の一層の教育努力が期待されるところである。

京都の四季と祭事が見事に調和し、それに彩りを添える花街の存在は、東京の「東おどり」の背景となる新橋等の花街や、名古屋の「名古屋おどり」で名妓連が、西川流を支えて励む存在等とも相対して、何時までも五花街揃って日本文化を裏打ちして支えて欲しいものであると、私なりに一つの危機感と期待を懐いていたのであった。

この年の晩秋は、一日も早く都の厄年を駆け抜けたいのか、遠く周山街道から足早に嵐山・嵯峨野、そして公募で命名されたばかりの「きぬかけの路」界隈、そして加茂川から東山あたりの紅葉まで、冷たい雨に打たれて急ぐように散ってしまったのであった。

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