盟友 故松中修身大兄 随筆集紹介(2)

小紋の女

あの日、冷たい比叡おろしが吹き、東山にかけての山並みが雪雲に覆われ、洛北から洛中辺り一帯は、不思議と思えるほど静まりかえっていた。三法を山に囲まれた冬の京都は、時々、息をひそめるようにしてこの冷え込みに沈黙するのである。

明け方から再び降り出したらしい雪で、高野・吉田・聖護院、それに賀茂の河原も、その向こうに見えるはずの岡崎から粟田口辺りの寺院の甍も、白一色の銀世界となって音が消えたことが、肌に空気の冷たさをことさらに実感させるのであった。

昨秋からと云うよりも、もう晩夏の頃から体調を崩しはじめて、その後になって、急速入院加療していたひとりの芸妓が、贔屓の人々の期待や祈りから、まるでするりと逃れるように、最新医療の効果もなく急ぐかのように逝去してしまった。

花街きっての大きな存在であった彼女の死は、春秋の舞踊の会でしかその美しい姿を愉しんでいない人々には、大きな驚きであり、お座敷での軽妙酒脱な会話と美しい舞姿を共有してきた贔屓の客たちには深い悲しみであった。そして京花街の一つである小さな町さえもが、この朝は逝去した名妓を惜しむかのように、降りしきる雪の中で息をひそめ、弔うように茶屋の門口を固く閉じていったのであった。

この日、その芸妓の葬儀は、故人が五十余年間にもわたって生き抜いた花街の茶屋で営まれ、正午前から始まった葬儀・告別式には、小路や狭い路地に会葬者が溢れていた。降りしきる雪から喪服姿を庇いながらかざす傘影が、独特な静寂をつくりだし、身動きしない会葬者の列の隙間から、低い読経の声が流れていた。弔問に訪れた人々は、それぞれに顔を見合わせては憂い顔で会釈を交わし、長い列に加わって底冷えする寒気に堪えていた。

やがて人の列はゆっくりと茶屋の奥座敷に設えた、かたちのよい祭壇へと歩を運んだ。その祭壇脇には、身内の人と思しき老婦人と、この町の世話役や茶屋の女将達、それに姉妹筋にあたる芸・舞妓達が居並び、会葬者にいちいち会釈と目礼を交わしながら、会葬の謝意を伝えるのであった。幼い舞妓ほど涙で頬を光らせて、崩れ落ちそうな悲しみに耐えている様子であった。

この芸妓が三十歳を過ぎたころ、親しい贔屓の粋人たちの間では、「小紋の女」として評判を得て持て囃されていた。若かったころは痩身であったので、春秋の踊りの会では胸にタオルを重ねて着付けしたほどで有った。その痩身な彼女が、日ごろのお花の席では粋な小紋の着物を着こなして、座敷での立ち居振舞いは実に美しい容姿で、しかも人望があった。普段から彼女の着物や羽織、それに長襦袢までも小紋の染め柄を愛用していた。

この日、祭壇に掲げられた遺影は十年ほど前のもので、当時のキリっと引き締まった美しい面影が人々の涙を誘った。大きく引き伸ばしたその写真には、若紫色の紬に「昔の胡蝶桜」の小紋が配され、鼓が影絵のように描き染められた名古屋帯が、如何にも名妓の雰囲気を高貴に匂わせていた。

焼香を終えた帰路の一隅に、広くない奥座敷に設えられた若い竹桟で区切った空間が有って、その壁際に添って本場結城紬の「遺影」の着物が架けられていた。受け継がれてきたものか、或いは、代々受け継がれてゆくのであろうこの着物と帯は、余程、故人の思い入れの着物であったのかも知れないと、弔問者は見事な小紋の着物を眺めたのであった。

何年か前の記憶であるが、大阪の国立文楽劇場で彼女と出会った時、確かこの着物であったことを想い起こした。あの時、この芸妓はある劇作家と一緒であったが、彼は「小紋の女」だといって誇らしげに芸妓を私に紹介した。互いに以前から顔見知りではあったが、紹介されたのを幸いと、軽く会釈を交わして微笑みあったことが想い出された。

時代とともに花街の様子も、少しずつ様変わりしてきているが、こうして故人が六十年近くも過ごしてきたこの町で、生前に関わりのあった人々に手厚く看取られ、葬儀では身内にも劣らない思い入れをもって見送られるのは、美しい情景である。

会葬者は、京都市内ばかりではなく、遠くからも大勢の人たちが弔問に訪れていたが、何と云っても代表的な花街の実力派の芸妓であったことから、長年の贔屓の客、舞踊、能・狂言、長唄・常盤津・清元・大和樂などの家元や師匠連中。それに鬘屋や衣装屋の面々に料亭や旅館や大店の主など、この町と所縁の深い人々が大雪の中、多数弔問に駆け付けたのであった。正午を過ぎた頃から、降る雪の量が少し増し、小さなテントの受付では記帳や傘の処理などで忙しくなっていた。その会葬者受付を、神妙な面持ちで手伝っていた祇園町南の小料理屋を営む老女将も、昔は祇園甲部の芸妓であったが、つくづく思い当てたように「芸妓はんのお葬式は、なんや真夏の暑~い日か、真冬の寒い~日どすなあ…」と呟いた。その呟きが切っ掛けとなってか、小声で故人の闘病に至る様子が語られたり、主治医の懸命な世話振りや、花街検番の苦労話等が語られたりして、老妓のひとりが、ぽつりと「今頃は、よぉう、喜んではりますやろう…」と、呟いてそれぞれ納得したようであった。

するとその場に居た髪結いの跡取りに、「二年前の夏頃のことどしたけど、お姉ぇはんが舞鶴たら…、城之崎たちに墓買いはったいわはりましたぇ…」と若い芸妓のひとりが、さも秘密を知っていると云わんばかりに喋った。すると髪結いの跡取りは「何で、そんな遠いとこに?」と訝り、居合わせた舞妓が小さな声で「お骨収めは皆でバスですやろか?」と話題が広がってゆくのであった。

そう云えば、昔の芸妓は幼い時に故郷を出てこの町に入り、汗と涙で懸命に修業を積んで稽古に励み、襟替えをして一人立ちしてからも、更なる芸事に勤しんで駆け抜けるように生きたのであった。振り返って見ると、懐かしい故郷にはすでに父母は逝き、兄弟姉妹もそれぞれの人生を歩んで老い、芸妓として押しも押されもしない地位に就いた年齢になってみると、中には故郷に寄る辺のない人が有っても不思議は無いのである。

花街で育ち、家庭を持ち、家族を養って一家を構えた芸妓も数多く存在する。しかし、一昔以前とは違って、旦那と添い遂げられなかった芸妓も数多く、その晩年には厳しいものがあった。そして花街を良い意味で支えてきた経済社会のあり様の変化と、社会環境の変化、それに財界人や産業人の意識や地位にも、以前とは本質の違う大きな変化が起こっていて、両者の関係はさらに難しくなるばかりである。

柩に綺麗な表情で眠る芸妓の周りに、特に親しい会葬者が思い思いの別れを告げて花を手向け、涙ながらに暇乞いをしていよいよ出棺となる頃になって、この日の雪は降り止み、風も凪いで人々は重い雪傘を畳んだのであった。

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