私が尊敬してやまなかった素晴らしいロータリアンでもあられた松中修身さんがこの世を去られて3年の月日が流れました。松中様にはこの随筆を生前本欄に掲載させていただくことに積極的に賛同得ていましたので、松中修身様の随筆集を紹介してご冥福をお祈りしたいと存じます。
片陰
私の二期目となった京都時代は、自らの壮年期の始まりの頃であったこともあり、今になってみれば活力にみちた日々を送ったと回顧できるし、何と言っても思考力も洞察力もしなやかで鋭敏であった。
私にとって昭和五十一年(一九六八年)は、大阪の香里と京都の藤森の地に二つのキャンパスを有する聖母女学院の経営に参画して二年が経過した頃であって、数百人もの教職員ともそれぞれの交わりを深めて、私自身、私学経営の中枢に馴染んでいった頃であった。
伝統のあるこの学院には、それぞれの分野で素晴らしい専門知識をもつ教職員を有していて、その関わりにおいても、私は、児童文学や家政学、歴史や美術、心理学や教育学など幅広い分野にわたって教わることが多かった。わけても伏見に住んでいる教職員は数多く居て、中には古い歴史と家柄を誇る家系の人も居て大いに驚いたし、かつ感動を覚えたこともあった。そんな中で、私にとって大いなる影響を与えられることとなった忘れがたいエピソードがある。
七月初めの頃、ある年配の先生から声を掛けられて、「自宅でのお茶事においでになりませんか、主人がお誘いするようにと申しおりますから…。」とのお誘いを受けた。そしてその翌週の土曜日の午後、その先生と共に両替町のそのお宅に伺ったのであるが、その日は陽射しが強く虫籠窓に千本格子の古い家並の通りを、傾いた西日にさらされながら、軒下にできた片陰を縫うようにして歩いていった。
京阪電車の伏見桃山駅に降り、大手筋を西に行き、初めて南北に交わる真直ぐ伸びた通りを行くと両替町であった。歴史的に見て豊臣秀吉が伏見桃山城を築城した直後から町人達の町として開けたところで、後になり徳川家康によって日本最初の銀座が開かれ、町は両替商や銭屋によって栄えたところだと聞かされていた。
町の通りは車両の行き交いもまばらで歩きよかった。老先生の差し出す小さな日傘の影を受けながら、陽射しの片陰にそって「此付近銀座跡」と書かれた石碑を見ながら美しい瓦葺の土蔵がある古いお屋敷に着いた。
比較的簡素に造られている門をくぐり、陽射しの明るさに慣れた目には如何にも暗く感じられる玄関土間に入ると、外気の熱さが急に遮断されたように感じられてほっとした。招じられるままに玄関の上がり框から縁側に回ってお座敷に上がったが、少し時間が早いのでということで、庭先に続く応接間で待つこととなった。
その庭にも片陰があって、その奥に茶室が見えていた。それらが縁側の空間を通して眺められ、木々の緑に照り返る光が輝いて自然との一体感を創り出している。如何にも行き届いた庭の手入れとともに、静謐で見事な町家の庭であった。
この日は、皇室ゆかりの和紙師、茶の宗匠、室町の呉服商、大学の学長、それに地元酒造会社の社長など、この家と所縁の深い方々に私も加わって、十三名のお茶事であった。人数の関係で、この日は広間で行われたのであった。
正客には、初老で端整な風貌の和紙師、そして大学の学長、酒造会社社長と次々に続き、中程の席に私が連なった。お手前は宗匠の直弟子というこの家の主人で、大らかな仕草でゆっくりと茶の湯をすすめた。掛け軸も生け花も、その設いの見事さもさることながら、それまで私が手に触れたこともない桃山時代の作と思しき絵志野の「志野焼茶碗」や、茶花として初めて見る「令法」など、異空間の体験と云うに相応しいものを味わった。それから以降、折々にこのお茶事に招かれるようになったが、この席で知己を得た人々との交わりは筆舌に尽くしがたい影響を私に与えてくれた。
正客として主人に述べる言葉の美しさ、表現の見事さ、席に流れる空気を慮る繊細な心配り、そして含蓄の深さ、どれをとってみても並々ならぬ教養であると感じ入ったものである。それだけではない。大学の学長が正客の言葉を受けて軸の書を解説するにおいては、最早、常人の域を超えたところの文学的な素養に溢れて、ただ掛け軸としか認識できていなかった私は、驚がく的な衝撃を受けたものである。
その方々の年齢が私とは二十歳ほどの差が有ったとはいえ、私に与えられた課題の大きさにある種の怖れすら感じていたのであった。そんな雰囲気の中で、酒造会社の社長が柔らかい語り口で、緊張している私を気遣うように、菓子を誉め、器を鑑賞して示し、軽く同意を促すように声を掛けてくれたのには、人間としての温かさが伝わってきて、茶の湯の素晴らしさを感じると共に、しみじみと嬉しさを実感したものであった。このようにして透明ともいえるほどの明晰さや厚みのある人格を身に纏った人々が、その後も折に触れて私に交わりの機会を提供して呉れたそのことが、私にとって教育事業を担う上で、大変な恩恵を蒙ることに繋がっていったのは、間違いのないことであった。
このように、伏見という町はそこここのいたるところで、日常的に茶会が催されたり、詩歌の会やかるた会、それにお座敷での能楽などを楽しむ集いが持たれたりするのである。あるときは狂言の鑑賞の後、私も、狂言の手ほどきを受けたりしたことも有った。
おびただしい数に及ぶ神社仏閣、そこで繰り広げられる数々の祭りや行事、その何れもが京都の歴史の奥深さとつながり、文化の重層性となって、静かに生活に密着しているのである。
私は、この頃すでに、邦楽の浄瑠璃である清元の稽古を始めて数年を経ていたし、私学経営の参画とは別に、本来の工作機械の会社にも携わっていたので、客として祇園町や上七軒、それに先斗町などにも足を延ばすことはあった。こうして京都のお座敷文化にも親しく交わっていたところがあったが、やはりこの時期、伏見の町で触れた町屋の京文化は、私にとって一つの基本となる大事な経験であったように思う。
四十歳そこそこの年齢で、専任・非常勤を含めて総勢五百人以上にも及ぶ教職員への責任ある地位についた私にとって、知己を得た人たちへの謙虚さと洞察力には学ぶところが数多くあった。そして、慎重に自らの軸足を、どこに置いて人生を歩むかという問題にも大いに教えられたりもしたのであった。それらは私の人生にとって一つの色彩と特徴を与える結果となったと、当時から自覚していたし、彼らと同じ年齢に達した今もその思いに変わりはないのである。
こうして町人文化と呼んでもよい伏見の文化の伝統は、実は、皇族貴族文化にも通ずる価値の高さがあり、伏見の町の存在は、徳川幕府の安定とともに一層栄えある存在となり、そのことが、本阿弥光悦が徳川家康から洛北高峰を拝領することにも連なり、高峰光悦町を築き上げる遠因となったと云えなくもないと私は思っているのである。それほどに伏見は町人文化として安定と繁栄を示してきたのであった。
そこにはこの平安時代からの伏見、港宿としての伏見、酒造どころとしての伏見、池田屋騒動など歴史に彩られた伏見、そして祭りに支えられた伏見が、走り続ける私の人生にあたかも片陰を差し出すように、そっと懐を開いて私の心の重荷を受け止めてくれるのである。
|