平成25年12月12日  谷口文章 君を悼む


フヨウプレカット株式会社 社長 横尾正治

平成25年11月9日早朝、私の友人であり、精神的支柱でもあった谷口文章君(甲南大学文学部人間科学科教授)がなくなられました。生まれ育った芦屋市公光町の時代からの知り合いで、愛光幼稚園、精道小学校、甲南中学・高校とつねに一緒でお互いわかりあえる唯一の友人でありました。もともと彼は語学に堪能で、中学に入るや、メキメキと英語の才能を伸ばして、特に英会話は芦屋の精道塾に出入する外国人をつかまえて、英会話のトレーニングをつんで、中学三年か高校一年のとき自分で英会話塾を開き、私も一度受講させてもらったこともありました。また、甲南高校時代は米国の高校の交換学生の話し相手を一手に引き受けて、おかげでその学生は結局ほとんど日本語をマスターすることなく帰国することになりました。高校生になって、甲南中学校、高校が岡本から芦屋の山手町に移った頃から、おうちの家業がおもわしくなくなって、ご両親と別々に住まわれ、ご苦労されたようで、そのころからほかの友達が “あいつ、おかしいんとちがうか” といわれるぐらい書物をむさぼるように読むようになったようです。あとできくと “あのときは求めていたからな” といっておりました。そのころ読んだ書物でいちばん救われた言葉はニーチェのツアラトウストラの “生は担うに重いと、しかしそのようにかよわい様をみせるのはやめてくれ。われわれはおしなべて、その生を担う力のある愛すべきメスオスのロバなのだ” という一文だと何度となくいっておりました。経済的な問題で彼は受験勉強にトライさえ出来ず、塾や家庭教師などをしながら、自力で甲南大学の経済学部にすすまれました。一方、私は親のおかげで一浪して、京都大学の農学部にはいることができました。私が大学に入るや、本を読め、本を読めとすすめるようになり、30冊ぐらいの本を紹介してくれました。ツアラトウストラ、罪と罰、カラマーゾフの兄弟、風とともに去りぬ、西田幾多郎の哲学入門、サルトルの存在と無、サムエルソンの経済学、山岡荘八の徳川家康等々、それにマルクス主義、や唯物論は考えが深くないので読む必要はないし、それをバックボーンにした学生運動には入り込まないようにといわれました。そのころから盛んにかれは哲学の実在論、認識論の話をするようになっていました。たしかにあとで西田幾多郎の哲学入門を読むとおなじようなことがかかれておりました。たぶん二十歳ごろだったとおもいますが、彼と、神戸の私大のドイツ語の先生で教授になられたT君と三人で三宮のセンター街の喫茶店でお茶を飲みながら、例によって、谷口君が哲学者の批評を延々としておりました。すると、彼と背中合わせで小柄なある老人がじっと聞き耳をたてているようにみえました。しばらくして、こちらの席にこられて、谷口君に “あなたのいわれたことは私もまったく同感です、あなたはどこの学生さんですか” とたずねられました。それ以降、彼はこの方と若干の交流が続いたようです。あとできくとこの方は当時甲南大学の教授で、阪大の名誉教授の相原信作 先生でいわゆる京都学派といわれた西田幾多郎の最後のお弟子さんだったということです。のちのち甲南大学の哲学科の講師、助教授、教授への道もこんな幸運があったからかもしれません。また相原先生もこのことがよっぽど新鮮に写ったのか、甲南大学にもこんな学生さんがいるんだという感慨をしるしたエッセイも残され、それを谷口君からみせてもらったことがあります。

私の学生時代は1 , 2回生は甲子園から京都に通っておりましたが、3 , 4回生になって下宿をはじめるや度々おしかけてきて泊り込むようになりました。とくに当時は学園紛争が盛んで学内は講義が延び延びになりあげくに建物が封鎖されてしまいました。建物には自由に出入はできたものの、授業はなく、たまに助教授や助手の勉強会があるぐらいでした。そこで谷口君が私の下宿先で一緒に勉強しようということになって、バートランドラッセルの ”ウェスタンフィロソフィー“ を教本にして大学の学友の杉本君と3人で読書会をはじめました。実際は谷口君がリードして2〜3ページ読むぐらいしか進みません。あとは近くのラーメン屋かギョーザ屋で飲んだり食ったり午前の3時か4時まで起きていて一眠りしてから彼は西院の田辺医院の息子の家庭教師にでかけていきました。私はクタクタになりながら眠っている彼より先に大学に行った覚えがあります。私も彼の紹介でそこの田辺智史君の数学の家庭教師を受け持つようになりました。きっと二人とも酒臭かったのではないかと思います。余談ですが田辺君のお父さんは当時でも京都医師会の会長か役員をされていて非常に活動的で、はぶりがよさそうで、映画評論家の荻昌弘に似た方で私が大学を卒業して数年後に京都市長になられました。
三人で下宿先などで会っているときは彼は西田哲学どっぷりで、通常会話のなかでも "一即多、多即一“ とか ”絶対矛盾の自己同一” とか “場所の弁証法” とか彼が何度もいっているうちに本当はわかっていなくとも、なにか半分ぐらいわかってきたような気分になったものです。                                

谷口先生が甲南大学経済学部を卒業されたあと、本来のやりたい哲学の勉強のため、阪大文学部の修士課程にはいられました。そこでの研究の対象の哲学者はアダムスミスだったときいています。一方塾の経営は順調で高槻、武庫之荘、亀岡と住む場所場所で開塾して奥さんやお父さんも、以前教えた教え子も総動員して広げていきました。またいつごろかは知りませんが、奈良工業高等専門学校の先生になられました。その頃からは、哲学の専門家になったからか、もう西田哲学の話はしなくなりました。
昭和50年ごろ、私が甲子園の家から枚方に移ったときも、武庫之荘や高槻の塾の帰りだといって9時ごろに突然あらわれ、一緒にいた私の母親のかぶらの千枚漬けがおいしいといって喜んでたべていました。ただウィークデーの夜遅くに来られるのには正直閉口しました。昭和56年に甲南大学の哲学科の講師になられてからは、塾の経営はやめられたときいております。その後の活躍は谷口文章研究室のブログに書いてあるとおり、野に放たれた野鳥のようにエネルギッシュに大活躍されました。ある日大学ごとの入試案内と過去の試験が掲載された本で、大学案内のところで、甲南大学文学部の名物教授として案内がありました。広野のグランドで学生に田植えや稲刈りを実体験させたり、不登校などこころの病をもった学生などに、催眠療法や箱庭療法で精神分析をして原因を特定して、的確な治療を行うというもので、たくさんの方を救済されました。また研究の中心も哲学から環境教育や環境倫理まで内面の問題から世界的な問題まで扱うようになり、平成6年に教授になられるや、中国、タイ、カナダなどの大学と交流し、シンポジウムをひらかれました。お互いに忙しくなって、お会いするのは半年から一年に1回ぐらい。よく私と会えば、ほっと気が休まるといってはお声がかかって、摂津本山の居酒屋でゼミの学生も入れて、一緒に食事させてもらいました。また、平成10年(1998年)に北京大学創立100周年の記念行事でゼミの方々と訪中されたときには大学生になったわたしの娘二人を同行させてもらい、大変お世話になりました。

平成19年(2007年)の9月の金曜日に私共の会社に、谷口教授以下天野さんや渡辺さん、ゼミの学生さんなど工場見学に来ていただきました。何億も投資したプレカットの機械がフル操業でまわっているのを見ていただいて、大変喜んでいただきました。そのあと住之江の居酒屋で私どもの営業やCADを交えて飲み会をはじめました。彼はよっぽどうれしかったのか、営業の北橋、田中、岩嵜、当時まだCADだった鍋谷をひとりひとり順番に説教をしていただきました。その晩はゼミの学生は帰らせて、よったままその店で一晩すごして、お互い若くないんだからといいながら翌朝一緒に帰りました。

最後にお会いしたのは平成23年11月25日赤熊環境研究所ができたときです。わざわざわたしの自宅まで出迎えてもらって、車で先導していただきました。一泊させていただいて、谷口研究所の皆様に歓待していただき、たいへんお世話になりました。自宅を建てるときの参考にもさせていただきました。今年の夏に京都方面で水害が発生したので、久しぶりにこちらから、携帯をかけました。なんとことしの1月にガンを発症して長期入院をした、いまは東京の病院に通いながら、カムバックしたところだ、といわれ私自身どう対応してよいかこころの整理がつきませんでした。なくなられる2週間ほど前、メモのようなお手紙を添えて、メシマコブをお見舞いにおくりました。あとで秘書の渡辺さんからお聞きしたら非常に喜ばれて、服用され、手紙もずっとハンドバックに収めていただいていたとおききしました。なくなられる二日前まで大学で講義されていたそうです。                                    

小学6年生のときお互い負けず嫌いでとった相撲の体感はいまだに残っています。残念で残念でなりません。若いころの谷口君ならこういうでしょう。

”嘆くな横尾。二人はいまでも同じ世界にいる、絶対無という世界で“



目次へ戻る





E-Mail
info@fuyol.co.jp


ホーム 在来工法プレカット 金物工法プレカット 特殊加工プレカット 等 耐震門型フレーム 等
地球温暖化と木材 健康と木造住宅 会社情報 お勧めリンク 横尾会長の天地有情
当社プレカットによる施工例写真  社員・役員のブログ天国